吉備に築かれた造山古墳は、5世紀初め頃までは全国最大の規模を誇っていた全長約350mの巨大古墳です。このような大きな古墳が岡山に築かれた背景は何だったのでしょうか?今回はその謎に迫ります。
造山古墳前方部にある荒神社の横に、石をくりぬいて作られた大きな石棺(長さ239cm、最大幅111cm、高さ75cm以上)があります。この石棺には、吉備から約500kmも離れた熊本県の阿蘇山で産出される阿蘇溶結凝灰岩が使われています。また、造山古墳の陪塚である千足古墳は、造山古墳に葬られた人の血縁者、あるいは家来などが埋葬されていると考えられており、内部の石室には石障(仕切石)と呼ばれる板状の石材が並べられています。石障は九州の古墳によく見られる特徴です。千足古墳にも熊本県の砂岩が使われており、石障に刻まれた直弧文と呼ばれる幾何学文様は九州の古墳でよく用いられた装飾文様です。
これらの証拠から、吉備と九州には密接なつながりがあったことがうかがえます。※直弧文(レプリカ)は市埋蔵文化財センター(中区網浜)に展示しています。
千足古墳と同じく造山古墳の陪塚である榊山古墳からは、5世紀に朝鮮半島から伝来したベルトのバックルである馬形帯鉤や、馬具の部品である龍文透金具などが出土しており、朝鮮半島との関係が深かったことが分かります。
造山古墳が築かれた吉備は、瀬戸内海に面しています。岡山平野の豊かな土地を生かした生産力をもとに、強力な水軍を編成し、九州や朝鮮半島と交易し、造山古墳を築くような巨大な勢力を生み出したのではないでしょうか。