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吉備の三大巨墳 造山古墳・作山古墳・両宮山古墳

[2024年8月1日]

ID:62959

吉備に築かれた造山古墳は、5世紀初め頃までは全国最大の規模を誇っていた全長約350mの巨大古墳です。このような大きな古墳が岡山に築かれた背景は何だったのでしょうか?今回はその謎に迫ります。

吉備の古墳、ヤマトの古墳

造山古墳

吉備の三大巨墳は、造山古墳(北区新庄下、全長約350m)、総社市の作山古墳(総社市三須、全長282m)、赤磐市の両宮山古墳(赤磐市和田・穂崎、全長206m)の順に築かれました。全長の変化から分かるように、吉備の王墓はだんだんと縮小しています。同じ頃、ヤマトでは上石津ミサンザイ古墳(大阪府堺市、全長約365m)、誉田御廟山古墳(大阪府羽曳野市、全長425m)、その次は仁徳天皇陵古墳(大阪府堺市、全長525m)が築かれ、その規模は時代が進むに従って拡大していきます。

作山古墳
両宮山古墳

古墳の規模と地域の勢力

 古墳の大きさは、地域の勢力や豪族の権力などを反映していると考えられています。そうすると、造山古墳以降は吉備とヤマト王権による二頭政治は解消され、ヤマト一強の時代になったと言えそうです。ただし、作山古墳と両宮山古墳は、縮小こそしたものの、当時の倭国で2番目の規模を有し、まだまだ大きな勢力を持っていました。

 しかし、5世紀後半になると、吉備の王墓は全長80mほどに縮小します。日本最古の歴史書である「日本書紀」には、吉備の豪族がヤマト王権に反乱を起こすも鎮圧されたという伝承が見られます。古墳の急速な規模縮小は、そのことを反映しているのではないでしょうか。