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興除について

[2010年3月13日]

ID:4636

興除地区の紹介

興除の位置

興除の位置図

興除地区は、岡山市の中でも南西部に位置し、倉敷市、早島町に境を接しています。
面積は17.17平方キロメートルで、そのうち1,140ヘクタール(約66パーセント)で「米」「麦」を中心に、「ナス」「レンコン」「トマト」などを栽培している農業地帯です。
このあたり周辺は、古くは「吉備の穴海」と呼ばれた遠浅の大きな入海でした。それが中世末期以降、干拓が繰り返され現在のような姿になっています。

興除の地名

興除新田の地名は、開発途上の文政5年(1822年)詩人であった岡山藩士小原大之助が、中国管子の「興利除害」から興除の文字を提案したことに由来します。また、当時藩政の責任者であった郡代が地域を3つに分けて、東村、中村、西村とつけるよう提示しました。
しかし、新田に村の字を使っては幕府への届出の際差し支えるのではないかと言うことになり、これも小原の意見により疇の字をあて、東疇・中疇・西疇となりました。疇は中国の古書の中にあり「美田」という意味で、現在は畦の字を使っています。
江戸時代には一括して興除新田と呼ばれていましたが、明治8年(1875年)には地区をすべて村とし、東疇村、中疇村、西疇村、曽根村、内尾村となりました。その後、明治22年の町村制施行と同時に西疇村と曽根村が合併し西興除村に、東疇村、中疇村、内尾村が合併して東興除村となります。尚、曽根の地名は児島湾の北岸にできた三角州の根っこ「洲根」に由来しています。

興除地区の地域振興

興除地区シンボルマーク

左のマークは、平成5年に興除地区地域振興事業推進協議会で「興除地区シンボルマーク」をつくろうということで募集し、その結果決定したものです。当時興除中学校1年の生徒さんの原案(原作に一部補作)になるものです。
周囲の赤は元気と情熱。背景の黄は豊作の黄金色の大地をイメージしています。5つの笑顔は西畦・曽根・中畦・内尾・東畦の5地区の楽しさと仲の良さを表しています。
また、その形は地区の農作物の米、麦、大豆、ナスなどにも見えますね。

興除と水

水系図

興除地区は干拓当初は水利権がなく、飲料水、農業用水の不足に悩まされ、飲料水は近隣地区から分けてもらったり、雨水をためて利用していました。また農業用水は、湛井12ヶ郷用水の西一郷半用水及び八ヶ郷用水と六間川の余水に依存してきました。干拓による農業用水の確保は興除地区のみならず、上郷(倉敷市庄地区)の好意と協力により、あらゆる困難を克服して現在の用水形態を完成してきました。この偉業を成し遂げた先人の功績は、汗入水道之碑にも刻まれて讃えられています。
昭和34年の児島湖の完成により、東畦地内は妹尾郷用水、福田用水の余水だけでなく、三角地用水機場から取り入れた湖水によっても賄われるようになりましたが、内尾、中畦、曽根、西畦の各地内の用水形態は、現在も変わることなく倉敷市下庄地区の水利委員と興除地区の用水運営委員(巡視)との綿密な連絡と入念な協議の下に維持管理されています。

汗入水道の碑

汗入水道の碑の写真

倉敷代官、大草太郎右馬は興除新田を開墾するため、沢所(現在の倉敷市庄地区)より新田に通づる用水路を計画し、関係する各村に同意を求めましたが、利害関係が複雑なためなかなか得られませんでした。そのとき栗坂村(現在の倉敷市下庄)の庄屋八木次郎はこの用水が完成すれば、双方共に利益が大きいことを説いて回り、その結果、興除用水は文政5年(1822)に着工し、文政7年(1824)に完成しました。しかし、完成後も興除地区には充分な水量が届かず、上流の地区ではしばしば氾濫したため、明治33年(1900)に都窪郡庄村長、内田弥太郎は、興除用水について入念な調査を行った結果、妹尾町汗入地内(現在の岡山市箕島地内)の用水路に、いくつかの欠陥があることがわかりました。明治42年(1909)に興除用水の改修工事は完了し、ここに名実共に興除用水は完成したのです。この碑はこの両名の者の功績を讃え、大正4年3月に建立されたものです。

興除地区樋門図

興除地区樋門図の画像
興除地区樋門写真

興除用水系地図

興除用水系地図の画像

興除用水系写真

興除用水系写真1
興除用水系写真2
興除用水系写真3

お問い合わせ

南区役所 興除地域センター

所在地: 〒701-0213 岡山市南区中畦593番地 [所在地の地図]

電話: 086-298-3131 ファクス: 086-298-9081

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