市役所仮庁舎であった内山下小学校の屋上から見渡される岡山市街を画いた図で、復興状況を見舞う昭和22年12月9日の昭和天皇の行幸の際、説明のために用いられました。
焼失区域(復興事業の対象区域)が朱線で囲まれています。
屏風仕立てのこの図は、当時岡山市で建築事務所を開き、岡山市の復興事業にも立ち会った建築家の佐藤重夫氏(明治45年~平成15年)が、岡山市からの依頼で描いたものです。佐藤氏はのちに広島大学教授などを歴任し、広島の原爆ドームの劣化が問題になったときはエポキシ樹脂の注入で保存が可能であることを報告して、保存への道筋を開いたことで知られています。
写真フィルムの入手が困難であった戦災直後の市街の全景パノラマには、ほかに坂本一夫氏の2点の連続写真(個人蔵)が知られているだけで、この屏風はそれらとともに貴重な記録です。
平成14年に作者から当館へいただいた手紙に以下の記述があります。「あの節は戦災後、昭和天皇が最初に焼けた多くの都市をお見舞い下さった昭和22年、当時の岡山市の営繕建築課長が、私の旧六高先輩である笠岡の(故)原田倫道という人でして、このような景観は建築の透視図の得意の者に書いてもらった方がよいとの考えで内山下の小学校のペントハウスの屋上より四方(北は金山、南は西大寺町京橋方面から、東は瓶井の多宝塔と、西は焼けた駅前から曲がりくねった電車通りとそれに沿った黒焼の銀行等)を画き、市長が陛下に御説明し易いように日本画風に描いたものです。」
岡山市の最初の戦災復興計画は、内山下校を仮庁舎としていた昭和21年6月に決定されました。
この小冊子は計画を広く周知し、市民の理解と協力を得るために作成されたもので、戦災にあった市街中心部の復興についての、最初期の段階の構想が、わかりやすくまとめられています。
ただし、減歩率(区画整理に際して公共用地に提出する土地の割合)が3割にも及び、1万軒を超える家屋移転をともなった最初の復興計画には、市民の反対や財政負担も大きく、その後、計画は縮小を余儀なくされていきました。
書かれている内容には、主要街路の幅員70m化(駅前城下線と瓦町線。それぞれ現在の桃太郎大通りと大供~大雲寺~新京橋間の道路)や、復興面積の10%の公園緑地化(実際に達成されたのは3%強)、市街南部に弾丸列車(戦後しばらく国鉄が構想していた高速鉄道)を開通させ大元駅付近に新岡山駅を建設する案など、野心的なプランが見られます。墓地の移転集約や、復興市街地の区画整理、各小学校への小公園の付設など、実現をみたものも多くあります。
発行者、発行年の記載がありませんが、商業広告も併載されているので配布を目的としたものです。これも復興計画の周知のために作成されたと考えられます。
左下の枠囲み内の説明に、駅前城下線の幅員50mとあるので、昭和21年6月の最初の復興計画ではなく、昭和23年の変更後のものですが、まだ多数の道路計画や岡山駅の移転構想が残っており、青江から分かれて玉島へ向かう国道30号線も計画に加えられていないので、昭和23年~27年頃の復興計画を示しています。
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