岡山市北区足守の出身で江戸時代後期に蘭医学者として活躍した緒方洪庵は、西洋医学の摂取に優れた業績を残すとともに、大阪に開設した適塾における教育活動で、福沢諭吉など日本の近代化を推し進めた多数の人材を育てました。
そこでこのたびは明治150年を記念し、当館所蔵資料によって緒方洪庵とその業績を紹介します。
豊臣秀吉の正室、寧(ねね、あるいは、ねい)の実兄、木下家定に始まる木下家は、豊臣政権では中央政界で活躍し、関ヶ原合戦後は足守に陣屋を構えて備中国賀陽郡と上房郡の2万5000石に封じられ、明治維新に至りました。ここに展示した資料の数々にもみられるように、歴代藩主の学問に対する高い意識もあって、文化的な雰囲気が育まれていたこの土地で、洪庵は文化7年(1810年)に足守藩士、佐伯惟因の三男に生まれました。
洪庵の父は大坂蔵屋敷への勤務をたびたび命ぜられた能吏で、漢詩の素養も深く、少年期の洪庵に大きな影響を与えていますが、洪庵自身も和歌をよくしました。洪庵は長男ではなかったため、家督を継ぐ義務がなかったこともあり、早くから学問で身を立てることを志していました。
木下家定の養嗣子で若狭国を領していた勝俊(永禄12(1569)~慶安2(1649)年)は、32歳のとき関ヶ原戦役において伏見城の守備を離脱したことを咎められ、領地を没収されました。以後、京都郊外へ隠棲し、長嘯子と号して歌人として名を残しますが、彼の庵を数多くの文化人が訪れ、後水尾天皇の宮廷でも文芸で活躍しました。清新で自由闊達な作風は、松尾芭蕉の俳諧にも大きな影響を及ぼしました。
『虫歌合』は、ヒキガエルを判者として虫たちが二手に分かれ、歌を詠んで競い合う趣向です。
木下長嘯子『虫歌合』(当館蔵)
『拳白集』は、弟子で蒔絵師の山本春正が刊行した長嘯子の歌の集大成です。
木下長嘯子『挙白集』(当館蔵)
木下家の第6代当主、公定(承応3(1654)~享保15(1730)年)は、学問に造詣が深く、藩士の子弟の教育のために自ら筆をふるい、唐代の伝記集『蒙求』に倣ったこの書物を執筆・刊行しました。「桑華」とあるように、日本(扶桑)と中国(中華)の偉人の伝記を対比し、訓戒にしたものです。
木下公定『桑華蒙求』(当館蔵)
僧、寂厳(元禄15(1702)~明和8(1771)年)は、足守藩士の子に生まれ、出家して京都で学び、浅口郡の宝島寺の住職などを勤め、梵語(サンスクリット語)の仏典を研究して多くの著述を残しました。寂厳の書の魅力は、書家としても著名な昭和初期の首相、犬養毅(号、木堂)によって見出され、広く知られるようになりました。この展示品は郷土史家、岡長平氏からの寄贈品です。
寂厳の書「南無天満大自在天神」(当館蔵)
歌集『紅玉』 大正14年(改訂版の初版本)、紅玉堂(初版は大正8年、玄文社から)、装幀:岸田劉生
『李青集』 大正14年(初版本)、福永書店、装幀:富本健吉
『木下利玄全集』 昭和15年(初版本)、弘文堂書店、装幀:武者小路実篤
明治・大正期の木下家の当主、利玄(としはる、筆名では「りげん」、号は李青、明治19(1886)~大正14(1925)年)は、白樺派の歌人として著名です。和歌は佐々木信綱に学びましたが、師から祖先に長嘯子がいることをしばしば言われて励まされたと、自伝に記しています(『李青集』85~86頁、『木下利玄全集』散文編8頁)。
木下利玄の著書(いずれも当館蔵。左から『紅玉』(改訂版)の本体、『李青集』の本体と箱)
洪庵は16歳で元服すると、大坂蔵屋敷への勤務を命ぜられた父に従って上坂し、蘭学医で物理学にも通じていた中天游(本名・環)に師事して西洋の学問を学び始めました。そして天保元(1830)年に21歳で江戸へ向かい、翌年に江戸の蘭学者、坪井信道に入門して彼とその師の宇田川榛斎(本名・玄真)の薫陶を受け、多数の蘭書を訳します。そして長崎遊学ののち、天保9(1838)年に大坂へ戻って適々斎塾(略して適塾)を開設し、ここで医業と蘭学研究に打ち込み、多数の門弟を育てました。医者としては牛痘種痘の普及に尽力し、幕末に海外から持ち込まれて大流行したコレラの治療法の確立に取り組みました。
洪庵の声望は全国へ広まり、文久2(1862)年には江戸へ召されて奥医師(将軍家の侍医)と西洋医学所頭取を命ぜられるものの、激務で身体を傷めたものか、翌年に大喀血がもとで惜しまれつつ世を去りました。
洪庵の多数の著述の中では下記が主著とされていますが、このたびはその中の2つを当館の所蔵資料で展示しています。
『病学通論』(宇田川榛斎の遺志を継いで病理学の基礎を確立しようとしたもの)
『扶氏経験遺訓』(ドイツの医学者、フーフェラントの内科医書を全訳し編集したもの)
『虎狼痢治準』(コレラの治療に有効な複数の書物の記述を訳して編集したもの)
洪庵の先師のひとり、宇田川榛斎の大著です。補遺の中の「凡例」に、榛斎の指示で洪庵が度量衡の換算について記したのが、洪庵の著述の最初の版行となりました。
宇田川榛斎『遠西医方名物考』(当館蔵)の中の緒方洪庵の執筆箇所(度量衡の換算)
死に臨んだ宇田川榛斎から託された訳業で、全12巻の予定が第3巻まで翻訳・出版されました。西洋医学の病理学と生理学の基礎が、この書物で初めて体系的に摂取されました。
緒方洪庵『病学通論』(当館蔵)
題名のEnchiridion Medicumとは“医学必携”というほどの意味で、これはドイツ(プロイセン王国)の医学者でベルリン大学教授を勤めたクリストフ・ヴィルヘルム・フーフェラント(1762~1836年)が50年にわたる医業の経験を集大成し、医療の実践に即してまとめた内科学書です。初版は著者が病歿する直前に最後の力を振り絞って脱稿し、直ちに出版されて各国語にも翻訳されたものでしたが、洪庵はこれを第2版からのオランダ語訳本によって和訳しました。
展示品は1851年発行のドイツ語第9版で、岡山医学専門学校の外科学教授、高橋金一郎(慶応2(1866)~大正8(1919))が収集し、歿後の大正8年に遺族から岡山市立図書館へ寄贈された「高橋文庫」に含まれていたものです。昭和20年の岡山空襲の前に疎開された、数少ない戦前の市立図書館蔵書の中の1冊です。
C.W.Hufeland, Enchiridion Medicum, 1836(1851)(フーフェラント『医学必携』の原書)(当館蔵)
前掲のフーフェラントの大著を全訳したもので、洪庵にとっても畢生の訳業となりました。凡例には、洪庵が原書に接した時の感動が「熟読数回ニシテ漸ク味ヒヲ生シ、愈々玩味スレハ愈々意味ノ深長ヲ覚エ、自ラ旧来ノ疑団氷釈セルヲ知ラス、殆ント寝食ヲ忘レタリ・・」と記されています。
原著の終章にある医者の倫理についての記述を、洪庵は別に「扶氏医戒之略」十二ヶ条として紹介しています。それは「医の世に生活するは人の為のみ、をのれがためにあらずといふことを其業の本旨とす。安逸を思はず、名利を顧みず、唯おのれを捨てゝ他人を救はんことを希ふべし。人の生命を保全し、人の疾病を復治し、人の患苦を寛解するの外他事あるものにあらず」など、現代にあっても色あせることのない、不朽の言葉でつづられており、医師としてのフーフェラントへの深い共感からほとばしり出たものでもあるのでしょう。
緒方洪庵『扶氏経験遺訓』(当館蔵)
フーフェラントの原著と洪庵の訳書の比較
適塾での門弟は約3,000名に上ると推定されていますが、その中からは下記のように、明治時代に重要な役割を果たした人物が多数輩出しました。それまで漢学が主流であった日本の学問体系に洋学を打ち立て、科学的思考を重んじた洪庵の学問への姿勢は、明治を先駆けるものでした。
大村益次郎
周防国生まれ、文政8(1825)年~明治2(1869)年
適塾の塾頭をつとめ、長州藩と明治政府で活躍し、軍政家として兵制改革などを行いました。
佐野常民
肥前国生まれ、文政5(1822)年~明治35(1902)年
佐賀藩と明治政府で活躍した政治家で、西南戦争を機に博愛社を創設し、日本赤十字社へ発展させました。
箕作秋坪
備中国生まれ、文政8(1825)年~明治19(1886)年
箕作阮甫と緒方洪庵に学び、洋学者として津山藩、幕府、明治政府で教育と外交に活躍しました。
橋本左内
越前国生まれ、天保5(1834)年~安政6(1859)年
適塾で学び、越前藩主の松平慶永に仕え、開明的な政策を進めましたが、安政の大獄で刑死しました。
大鳥圭介
播磨国生まれ、天保4(1833)年~明治44(1911)年
閑谷学校と適塾で学んだあと、幕府軍を率いて箱館などで戦いましたが、赦されて明治政府で活躍しました。
長与専斎
肥前国生まれ、天保9(1838)年~明治35(1902)年
適塾の塾頭をつとめ、のち長崎で学び、明治政府において医師として、医師制度と衛生行政の基礎を築きました。
花房義質
備前国生まれ、天保13(1842)年~大正6(1917)年)
岡山藩士で、初代岡山市長の花房端蓮の長男。明治政府で外交官として活躍し、清国、朝鮮、ロシアとの修交を進めました。
しかし、とりわけ著名なのは福沢諭吉(天保5(1834)年~明治34(1901)年)です。豊前国、中津藩の下級武士の家に生まれ、安政元(1854)年に長崎へ出て、翌年に大坂の適塾へ入門し、やがて塾長となりました。安政5年には藩命で江戸へ赴き、慶応義塾の起源となる蘭学塾を開設しましたが、開港された横浜を訪れたとき英語の重要性を痛感し、以後は英学に力を注ぎました。万延元(1860)年の咸臨丸への乗船以後、たびたび渡米・渡欧し、海外事情の摂取に努めて『西洋事情』(初編 慶応2年)を著しました。
維新後は新政府からの出仕の求めを固辞し、生涯にわたって官職にはつかず、啓蒙思想家として多数の著述を通じて西洋の制度と理念を紹介し、慶応義塾の経営にあたりました。下級武士の子として辛酸を味わった経験から、封建社会における身分制の不合理を鋭く批判し、個人の自立と平等を唱えて明治の近代化を思想の面で主導しました。自由民権運動に接しては、国会開設の必要性を説きました。
「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」で始まる諭吉の主著ですが、薄い冊子の形態で、初版は明治5年2月から明治9年までに17編が慶応義塾から発刊されました。日本の人口が約3,000万人であった当時、この書物は三百数十部が発行され、読まれたといわれます。
展示品は、初編を明治5年6月に小田県(現在の岡山県西部)の日新社から発行したもので、末尾に「・・塾生より贈り来れば遍く同志の者に知らしめんと欲し学校の活字を乞ふて数十部上木するもの也」とあります。
福沢諭吉『学問のすゝめ』日新社版(当館蔵)
旧暦(太陰太陽暦)から新暦(太陽暦)への改暦の合理性を説いた書物です。初版は明治6年1月1日に慶応義塾から出版されましたが、展示品は同年4月に東京で筆写された手写本です。さきの『学問のすゝめ』とあわせて、諭吉の掲げた理念が熱狂的に受け入れられ、これらの非正規版や手写本をも通じて全国に広まっていった様子がうかがえます。
福沢諭吉『改暦弁』の手写本(当館蔵)
人がひとりの個人として独立することの重要性と、そのためには深く学問を修めることが大切であることを説いた書物です。洪庵の適塾で学び、寝食を忘れて勉強に打ち込んだ体験が、諭吉を動かして明治の新時代が切り開かれていったことが思い合わされます。
福沢諭吉『修業立志編』24版(当館蔵)
緒方洪庵の師のひとり、津山出身の箕作阮甫が版行した『和蘭文典』は、蘭学を学ぶ人たちにとって必携のオランダ語文法書でした。福沢諭吉もさきの『福翁自伝』で、「そのとき江戸で翻刻になっているオランダの文典が二冊ある。一をガランマチカといい、一をセインタキスという。初学の者にはまずそのガランマチカを教え、素読を授けるかわりに講釈をもして聞かせる。これを一冊読みおわるとセインタキスをまたそのとおりにして教える」と記しています。それぞれ文典の前編(grammatica、文法)と後編(syntaxis、統語論)にあたります。
箕作阮甫『和蘭文典』前編(当館蔵)
箕作阮甫『和蘭文典』後編 成句論(当館蔵)
永山卯三郎『吉備郡史』昭和46(1971)年、名著出版(復刊)(初版、昭和12~13(1937~38)年、吉備郡教育会)
大内瑞恵『木下長嘯子』平成24(2012)年、笠間書院
瀬戸裕子「木下公定編纂『新撰自註 桑華蒙求』叙文を読む」『岡山県立記録資料館紀要』第11号、平成28(2016)年、51~54頁
福島俊翁、淡川康一『寂厳書譜』昭和52(1977)年、アート社出版(復刊)(初版、昭和33(1958)年)
緒方銈次郎『緒方洪庵と足守』昭和2(1927)年、私家版
緒方富雄『緒方洪庵伝』昭和17(1942)年、岩波書店
梅渓昇『洪庵・適塾の研究』平成5(1993)年、思文閣出版
梅渓昇『緒方洪庵と適塾』平成8(1996)年、大阪大学出版会
梅渓昇『続 洪庵・適塾の研究』平成20(2008)年、思文閣出版
中田雅博『緒方洪庵 ―幕末の医と教え―』平成21(2009)年、思文閣出版
梅渓昇『緒方洪庵』平成28(2016)年、吉川弘文館
電話:086-223-3373 ファクス:086-223-0093
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