会期:令和2年6月26日(金曜日)から8月30日(日曜日)まで ※月曜休館(ただし8月10日は開館)
会場:岡山市立中央図書館 2階視聴覚ホール前展示コーナー
今年3月、六曲一双の「能狂言図屏風」が当館に寄贈されました。この屏風は、江戸時代後期の土佐派の画家で京都御所の装飾にも携わった土佐光孚(とさみつざね)晩年の円熟した作品で、岡山市北区出石町一丁目(旧上出石町)の旧家に保存されており、岡山空襲の被害を辛うじて免れることができたものです。
今回の企画展示では、昭和20年6月29日の岡山空襲がどのような被害をもたらしたか、その被害を免れた「能狂言図屏風」はどのようなものか、岡山の能・狂言に関する当館所蔵資料とあわせて展示します。
昭和20年6月29日未明に行われた岡山空襲では、市街地の多くが焦土と化し、多くの尊い命が失われました。当時、小橋町(現・中区小橋町一丁目)にあった岡山市立図書館は、空襲前日に約300冊を疎開したものの、貴重な蔵書の大半を焼失しました。岡山城天守閣や後楽園の主要建物も焼失しました。
そうした中、後楽園にほど近い上出石町(現・北区出石町一丁目)は、空襲の被害を辛うじて免れました。昭和21年10月から翌年3月にかけて町内会単位で被害状況の調査が行われ、後に吉岡三平氏(元・岡山市立図書館長)によってまとめられた『岡山市町別戦災調査資料』の上出石町の項では、大型不発焼夷弾一個が落下したものの被害はなかったこと、百戸が焼失した下出石町他の近隣地域でバケツリレーをして防火活動を行ったことなどが記されています。「㊙焼夷弾爆撃ニ依ル焼失状況」図(当館蔵、部分)※「上出石町」に囲みを追加
『岡山市町別戦災調査資料』(当館蔵、上出石町の項)※主要部分に囲みと傍線を追加
平成29年に寄贈のご相談があってから、調査・検討を経て、令和2年3月、「能狂言図屏風」が当館に寄贈されました。
この屏風は、六曲一双(六曲の屏風が2点で一対)で、能と狂言の場面が交互に描かれています。それぞれ6つある各扇(面)が縦178 cm、横62cm、両端の扇のみ枠木があるため64cmで、屏風を広げると全体の幅は376 cmとなります。各扇に縦127cm、横54.5 cmの紙が貼られ、向かって右から能、狂言の順序で絵画が描かれています。<右隻> 三輪(みわ) 無布施経(ふせないきょう) 実盛(さねもり)膏薬煉(こうやくねり) 大蛇(おろち) 福の神(ふくのかみ)
<左隻> 放下僧(ほうかそう) 瓜盗人(うりぬすびと) 道成寺(どうじょうじ) 萩大名(はぎだいみょう) 紅葉狩(もみじがり) 朝比奈(あさひな)
それぞれの画面には落款と印章があり、落款に「画所預従四位上土佐守藤原光孚」と記されていることから、作者は江戸時代後期の土佐派の画家・土佐光孚(とさみつざね, 安永9(1780)年-嘉永5(1852) 年)であることが分かります。
土佐光孚は、わずか10歳のときに父・土佐光貞(とさみつさだ, 元文3(1738) 年-文化3(1806) 年)とともに京都御所の障壁画制作に参加しています。以後、光貞の跡を継いで土佐家の当主となり、京都御所の装飾で采配をふるうなど活躍しました。「従四位上」の位階から、土佐光孚の晩年(61歳-73歳、天保11(1840) 年-嘉永5(1852) 年)の作品と考えられます。落款印章
屏風の裏面にはところどころ破損があり、詰め物にされていた紙がむき出しになっていますが、それらには江戸時代の古文書が用いられています。
屏風(右隻)裏面
屏風(右隻)裏面の破損箇所
岡山では、宝永4(1707)年の池田綱政による後楽園能舞台築造以来、藩主の保護によって能楽が栄えてきました。後楽園の能は城下の町人や在方の農民などにも開放されており、藩主の綱政は自ら衣装をまとい、面をつけて、多数の領民の前でたびたび演能しました。綱政の能楽愛好は、継政らの後継者にも受け継がれ、林原美術館に膨大な数の能面や能装束が残されています。
また、寺社の境内などでは町人を観客とした勧進能が催されました。当館所蔵の国富文庫(町方惣年寄役を務めた国富家に伝わる古文書類)には、幕末期に大雲寺で5日間にわたり演じられた能の番組(能組)があり、江戸時代の町方の演能記録では唯一無二の資料です。
国富文庫097/9 「能組」
明治維新を迎えると、武家による能楽の保護が止み、能狂言は存亡の危機に直面しますが、市内の有力者がこれを支え、池田家に伝わってきた能面、能装束の保存に尽くし、後楽園能舞台を維持して能楽の普及を図るなど、多彩な活動が行われてきました。
当館では、大正14年4月12日に東山温泉楼で開催された尚諷会主催「謡曲連合大会」の番組を、元・参議院議長の安井謙氏からの寄贈により所蔵しています。また、昭和5年6月1日に発行された『岡山能楽界』創刊号は、戦前に岡山の能楽関係者が結集して発行した雑誌で唯一現存しているもので、巻末に掲載された賛助人名簿からは、当時の岡山の能楽界の主要人物をうかがい知ることができます。題字は俳人・西村燕々によるものです。『岡山能楽界』創刊号
岡山空襲では、後楽園に甚大な被害があり、鶴鳴館、延養亭とともに能舞台も灰燼に帰してしまいました。戦後、合同新聞社(現・山陽新聞社)社長等を務めた谷口久吉氏らが中心となって後楽園の再建が呼びかけられ、昭和33年には能舞台も復興されました。能舞台の復興にあたっては、倉敷出身で後に文化勲章を受章する池田遥邨氏が鏡板の老松を描くなど、岡山にゆかりの多数の人々の尽力がありました。この復元工事の様子については、『特別名勝岡山後楽園復元工事中間報告書』(岡山県後楽園事務所, 1961)に多数の写真とともに記されています。
今回寄贈のあった「能狂言図屏風」は、昭和10年までに上出石町の旧家に収蔵されていたようであり、制作されてから160-170年の歳月のうち、その半分近くにあたる80年以上岡山市内に保存されてきたことになります。岡山では能狂言が人々の生活とともにあり、高い水準で受容されてきたことが、「能狂言図屏風」の保存とも無関係ではないと考えられます。
なお、当館には土佐光孚の父・土佐光貞による画軸「藤樹先生肖像」(河本家旧蔵品)があり、屏風の受贈により、親子二代の作品がそろうことになりました。(※今回は展示していません。)土佐光貞筆「藤樹先生肖像」
所在地: 〒700-0843 岡山市北区二日市町56 [所在地の地図]
電話: 086-223-3373 ファクス: 086-223-0093