後楽園や閑谷学校を建設し、新田開発を進めた岡山藩の重臣・津田永忠は、明治期に歴史家・木畑道夫らが行った顕彰活動によって、その名が広く知られるようになり、不朽になりました。
岡山市立中央図書館が所蔵する木畑家の資料(「木畑文庫」)の中から、木畑道夫の奔走で多くの人から協力が集まり、明治29年に後楽園内に建てられた「津田永忠遺績之碑」の設置経過が詳しく知られる一連の文書を展示します(初公開)。
この展示では、当館が所蔵する木畑家資料(「木畑文庫」)の中から、津田永忠遺績碑の建設過程に関わる資料を展示します(初公開)。
推敲が重ねられた撰文の原稿や、木畑道夫の呼びかけに応えて多くの人が協力したことがわかる寄附金の帳簿、県知事と警察署へ提出した建設願書の控え、石材の購入や職工への支払いなどでかかった経費を記した収支帳、揮毫や寄付を依頼するために多くの人と交わした書簡など、碑の建設に関わる一連の資料が木畑家を通して伝えられており、津田永忠を顕彰するために関係者が注いだ熱意が甦ってきます。
その中でも老齢の病躯をおして実務を取り行い、終始情熱をかけて中心になって進めたのは木畑道夫でした。このたび展示する資料によって、その詳細な状況が初めて明らかになりました。
木畑道夫は、後楽園と岡山城についても近代で最初の学問的な著述を残した歴史家でした。地域の歴史遺産を守るために苦心を重ねてまとめられたそれらの著作と、貴重な草稿もあわせて展示します。
なお、木畑家は、歴史学者の道夫以降、旧制岡山中学の英語教師を務めた次男の竹三郎氏(文学者・内田百閒の師として著名)、国文学者で就実短期大学長を務めた孫の貞清氏と、教育者や学者を輩出しました。昭和59年に木畑貞清氏から当館へ寄贈された木畑家の資料(「木畑文庫」844点)は、これまでは紙のカード目録しか整備されていませんでしたが、この機会に点検を加え、本展示の初日からPDFファイルの目録を当館ホームページ「特別文庫」(貴重資料)へ掲載して、ウェブ公開しています。
晩年の木畑道夫の肖像写真(木畑竹三郎編『坦斎遺稿』から)
池田光政と池田綱政に仕えた岡山藩の重臣・津田永忠は、藩学校と閑谷学校の建設や、後楽園の造営、倉安川の開鑿、幸島新田、倉田新田、沖新田等の大規模な新田開発を進めて、元禄年間を中心とするわずか20数年間の間に数々の土木事業を行い、地域の発展の礎を築きました。
永忠は、現在では岡山藩政で儒学者の熊沢蕃山と並び称される重要な人物として広く認められています。しかし、学者として数々の著述を残し、幕府や諸大名に政策の助言を行った蕃山が、死後もたびたび伝記が書かれ、声望がずっと衰えなかったのと比べると、永忠は、生前にこそは名前が広く知られ、大名からも高い敬意をもって遇されるほどでしたが、もっぱら実務面に携わっていて広く読まれるような著述を残さなかったこともあってか、数々の土木事業にまつわる記憶は時代とともに次第に薄れて行き、明治時代には識者の間でさえも、あまり名前の知られない存在になっていました。
津田永忠の年譜(抄)
PDFファイルで開きます。
明治時代に活躍した岡山の歴史家・木畑道夫(号、坦斎。文政7年生まれ、明治37年没)は、岡山藩の藩医の家に生まれました。幕末維新の政変に際しては、番医者を勤めていた父の木畑隆敬とともに藩主・池田章政に随行して、京都と東京へ出張したこともあります。やがて廃藩置県が断行されますが、木畑道夫は引き続き岡山県庁へ出仕し、おもに県庁の記録管理と学事関係の部署で勤めたほか、ごく短期間でしたが邑久郡の安仁神社の権宮司を任されたこともありました。彼は権大属の地位に遇されますが、明治8年には数え年52歳で岡山県庁を依願免官します。
しかしその少し前から、元岡山藩士で県庁の能吏であった成田元美が、木畑を推挙して県庁の歴史編纂にあたらせていました。この人には『備前略史』や『池田家履歴略記後編』などの歴史の著作があり、木畑を歴史家へと導く役割りを果たしたのでした。
木畑は明治8年の免官後も岡山県の史料編纂の仕事を続けますが、やがてこれも明治14年に辞し、以後は池田家の岡山事務所に勤務して旧岡山藩の膨大な文書の整理と編纂にあたります。彼は志を一つにする職員をまとめて200巻余に及ぶ史料編纂を成し遂げました。木畑たちによって行き届いた整理が行われた文書は、現在、岡山大学附属図書館が所蔵する池田家文庫として大切に保存されています。
木畑は、こうした史料編纂を通じて津田永忠の業績を深く知るようになりました。池田家や永忠の子孫の家に残された文書から関係資料をつぶさに調べ、池田光政の没後200年の記念行事が行われた明治15年に、これにあわせて脱稿したのが著書『津田永忠君年譜』です。これは津田永忠の生涯にわたる事績を史料から汲み上げ、詳しく年譜にまとめたものでしたが、明治21年に印刷・出版されました。それは後代の人が津田永忠を研究するにあたって確かな基礎になった労作でした。
医師名簿
木畑家に伝わった岡山藩の医師名簿です。近習医師に続く番医師34名の中に、木畑道夫の祖父、木畑貞因の名前があります(開いた箇所の右から5人目)。木畑文庫094.903/1
己巳扈従(こじゅう)雑記
明治2年に木畑隆敬・道夫父子が池田章政に随行して京都と東京へ出張した記録です。無記名で執筆者を確定できませんが、詳細で的確な観察と記録からは後の歴史家、木畑道夫の若き日の姿が浮かびます。木畑文庫092.89/15
岡山県からの辞令
明治8年1月10日、木畑道夫に岡山県の史料編纂を命じるものです。木畑文庫092.89/54
岡山県からの辞令
明治8年8月2日、木畑道夫は数え年52歳で岡山県へ免官を願い出て認められました。木畑文庫092.89/52
木畑道夫が自身の履歴を記した「坦斎年譜続録」の明治9年の項目に、県庁を辞した後も、成田元美が取り掛かった岡山県の史料編纂に推挙され、従事したことが記されています。木畑文庫092.89/22-1
池田家岡山事務所からの辞令
岡山県庁の史料編纂も辞した直後の明治14年4月18日、木畑は池田家岡山事務所で旧岡山藩の文書の整理にあたることになりました。木畑文庫092.89/54
御月俸御停止被仰付度(おおせつけられたき)御願
木畑道夫は病気を理由にたびたび免官願いや月俸停止願いを提出しています。本人は脳症とか神経症と記しており、左手にも不自由があり、気力が長く続かない状態に陥ることがたびたびあったようです。それでも彼は池田家事務所で職員を統率し、膨大な旧岡山藩文書の整理と編纂を進めました。200巻余におよぶその成果は、現在は岡山大学附属図書館の所蔵になっている池田家文庫に引き継がれています。木畑文庫093.6/4
木畑道夫著『津田永忠君年譜』の手書き原稿
推敲と添削がびっしり重ねられています。
木畑文庫092.89/141
版が重ねられた木畑道夫『津田永忠君年譜』の刊本。右から明治21年の著者発行初版、明治41年の山陽活版所発行版、大正5年の岡山県内務部発行版。木畑文庫092.89/143-092.89/145
木畑道夫と西毅一(号、薇山。岡山県政の実力者で、国会の開設運動などを行った後、閑谷学校の再興に努めた人)は、明治18年8月に明治天皇が多数の随行員とともに岡山県へ行幸し、後楽園へ滞在した際に、天皇の車駕が通った郷土の備前地域が永忠の恩恵によって豊かに開発されていることを実感して、その顕彰を志しました。そこで有志者が集まり、明治維新後に池田家から岡山県へ譲られて、公園として広く市民に開放されていた後楽園の中に、その造営者であり、深いゆかりがある永忠を顕彰する石碑を建てることになりました。石碑へ刻む文章(撰文)は、西毅一が代稿として書き出した流麗な漢文の文章を、木畑も含む多人数で幾度も推敲を重ね、その上で東京在住の旧藩主・池田章政に示して了承を得ると、明治19年1月付で章政の名前で刻むことにしました。
しかし、ことは容易には進みませんでした。事業は遷延しましたが、明治24年には木畑が起草した趣意書を印刷して、多くの人から寄附を募ることにしました。明治28年には京都で第4回内国勧業博覧会が開催されることになり、岡山など各地でも協賛事業が行われるのを好機として建設が急がれました。香川県内で上質の石材(庵治石)を購入して運び、彫刻は倉敷の名工・藤田市太郎に委嘱しました。そして碑の題字(篆額)は、最後の将軍・徳川慶喜の実弟でもある先代の旧藩主・池田茂政に依頼しましたが、撰文の揮毫(筆をふるって文字を書くこと)は、いろいろ曲折の末に明治期を代表する著名な書家の日下部東作に委嘱することになりました。こうして顕彰碑(「津田永忠遺績之碑」)は明治29年に後楽園内の慈眼堂の付近に建設されました。
なお、木畑が没した後の明治43年に、陸軍特別大演習のために明治天皇が再び後楽園を訪れると、若年の頃に池田家事務所で木畑とともに史料編纂に携わり、木畑から歴史学を学んだ山田貞芳が中心になって津田永忠の叙位(正四位)が実施され、永忠への社会からの評価が決定的になりました。
このように、海外から近代の新しい思想や技術を学ぶのに熱心であった明治時代において、藩政期の地域の先人を尋ね、その業績を明らかにし、関連する文化遺産を正しく保存しようと呼びかけたのは、西、木畑、山田のような歴史を深く知る人々でした。
西毅一による撰文の原稿
池田章政の撰文として碑に刻むために、西毅一が代稿した原稿の冒頭部分です。この段階では題が「津田翁紀念碑」となっているのと、「備前は余が旧封なり」で書き出されています。木畑文庫092.89/259
西毅一による撰文の原稿
西毅一代稿「津田翁紀念碑」の末尾の部分です。木畑文庫092.89/259
西毅一の撰文原稿を木畑道夫が添削した原稿
木畑文庫092.89/140
西毅一の撰文原稿を井上丈平が添削した原稿
木畑文庫092.89/140
西毅一の撰文原稿を小野禎一郎が添削した原稿
木畑文庫092.89/140
建碑募金の趣意書
木畑道夫の名前で作成され、印刷された、建碑のための募金の趣意書です。格調高い文章であり、木畑道夫の強い意志が伝わってきます。木畑文庫092.89/140
趣意書の末尾の文(現代語訳と読み下し)が下のPDFファイルで開きます
現代語訳と読み下し
建碑醵金(きょきん)簿
開いた箇所には小田安正(岡山市長)、岡本巍(教育者で後に閑谷黌長や池田家事務所の史料編纂を務める)、曹源禅寺(津田永忠が創立に関与した池田家の菩提寺)、西尾吉太郎(山陽新報社長)、国富大三郎(藩政期に惣年寄を務めた商家の当主)の名前がみられます。醵金簿はたくさんの冊子が残されており、岡山市内の有料者が載っているもの、東京などに在住の池田家の財政顧問たちからのもの、津高郡と赤坂郡の村長たちの名前が記されているもの、岡山師範学校の教師たちが集めた募金の帳簿や、次に示す池田家事務所の職員からのものなどがあります。木畑文庫092.89/140
おもな義捐金をまとめた一覧
御家主様(池田章政)が100円、永忠の子孫の津田永央が30円、花房端連(元岡山市長)と義質(外交官、男爵)父子や、香川真一(各地の県令を務め、第二十二国立銀行、岡山紡績会社、岡山製紙会社などの取締役)、新庄厚信(元岡山県権令、元岡山市長)、杉山岩三郎(中国鉄道社長)、谷川達海(岡山紡績会社社長)らが10円、小原重哉(司法省に勤め監獄の改良に尽力)、野崎万三郎(岡山県庁で農政に携わる)らが5円を醵出しています。池田家の財政顧問が多く含まれています。木畑文庫092.89/140
建碑醵金簿から、池田家事務所員の箇所
数多くの醵金簿が残されている中で、岡山の池田家事務所で史料編纂に携わっていた木畑の同僚の職員たちが、少しずつの金額ですが募金している箇所があります。開いている箇所の左端に青年の頃の山田貞芳の名前が出ています。その次のページには木畑とともに藩政期の歴史を研究した塚本吉彦や、岡山事務所長の桑原越太郎の名前も出ています。木畑文庫092.89/140
発起人・木畑道夫の名前で出された建碑義捐金の領収書の書式
木畑文庫092.89/140
東京の池田家から木畑道夫のもとへ、2名の執事の名前で届いた手紙
木畑の希望に沿って家主公(章政)が甥の相良子爵に揮毫を繰り返し頼んでみたものの、相良が力及ばずとして固辞しているため(「額字掛物等と異り七百余の字数の文字、殊に永世公衆の祝る碑文ゆえ、時日を急ぎ認(したた)めては力及ばず、不本意ながら余儀なくお断り申し上げる・・」)、高名な書家に依頼しても費用が心配であるし、この際は、木畑自身が認めるのがよいのではないかと考えており、執事から「貴意を得たい」旨を至急親展で伝えてきたもの。木畑文庫092.89/140
小原重哉が橋本貞固にあてた手紙の前半部分
章政の意向を伝えられた木畑は、ただ驚くばかりでこちらも固辞するばかり(この手紙中に「木畑氏は到底認めぬ・・」と繰り返し書かれています)でした。そこで池田家の財政顧問でもあった小原重哉が、暗殺された大久保利通の追悼碑文などの傑作があり、近代を代表するといわれる著名な書家の日下部東作にいちど尋ねてみてはどうかと、御野郡の郡長なども歴任した橋本貞固(男爵)に相談する内容が書かれているのが、この手紙です。どうした理由からか、木畑道夫のもとに伝わってきています。木畑文庫092.89/140
撰文の割り付け原稿
左下に揮毫者として相良子爵の名前が記されていますが、さきにみた事情から、朱線の縦棒で消されています。木畑文庫092.89/140
岡山県知事への碑石建設願い書
木畑道夫の名前で岡山県知事へ提出された建碑願い書の冒頭部分です。木畑文庫092.89/140
岡山県知事への碑石建設願い書
願い書の添付文書には碑を建てる位置が示されています。後楽園内の慈眼堂のやや西の箇所です。碑は現在もその位置に建っており、沢の池越しに岡山城の天守閣を遠く仰いでいます。木畑文庫092.89/140
岡山県知事への碑石建設願い書
碑の形状を記して県へ提出した添付文書は終わっています。左のページは木畑が手元に残した願書の控え(写し)です。木畑文庫092.89/140
岡山県知事への碑石建設願い書
末尾に、県庁から返還された願書に添付される形で、岡山県からの許可書が綴じられています。なお、木畑道夫の名前で岡山県の警察署長にも同様の願書を提出しており、許可を得ています。木畑文庫092.89/140
津田永忠遺績之碑 撰文の読み下し例
PDFファイルで撰文の読み下し例(現代かなづかいにしています)が開きます。なお、執筆した西毅一は、一般的な碑文の書き方に多いように永忠の事績をただ書き並べるだけにせず、明治18年の天皇の行幸を通じて、その車駕が移動するたびに訪れた先で永忠が過去に行った建設事業の跡が次々と思い出されてくるような、劇的で躍動感のある書き方にしています。とりわけ、撰文の作者として名前を刻むことになる旧藩主、池田章政その人になり切って、彼の目線からあらゆる叙景をしていることが、大きな特徴です。後半で、晩年の永忠が隠棲した閑谷の地を訪ねた章政が、旧臣の働きを思い、「ここに余(わたし)は低徊して去ることあたわず」と述べるくだりなどは、この碑を読む人に深い印象を残すことでしょう。最後に詩文を高らかに詠じたあと、末尾は「この地を宰する者は、永くその功を思え」と結ばれています。
「津田永忠遺績之碑」の古い写真
これも木畑家に伝わってきたものです。建設時に撮影された可能性が考えられます。木畑文庫092.89/140
醵金及出納簿
この出納簿によれば、碑石の建設に関わる収支は下記の通りでした。揮毫とその彫刻にやはり多くの費用がかかっています。支出は33円余りの不足になっていますが、最後はどのようにしたのでしょうか。木畑文庫092.89/140
建設資金 506円89銭
(内訳)
義捐金 480円47銭5厘
預金利子 26円41銭5厘
建設費 540円68銭1厘
(内訳)
石代 100円35銭
工費 169円40銭
運搬費 41円50銭
建築費 105円31銭3厘
報酬 88円50銭 (潤筆、石工など)
印刷費 21円30銭
雑費 14円31円8厘 (旅費など)
不足 33円75銭1厘
木畑道夫が著わした『後楽園誌』は、池田綱政が津田永忠に命じて元禄期に造営した大名庭園を、歴史遺産として初めて学問的に解説したものといってよい著作でした。上下2巻のうち、上巻は後楽園の解説にあてられていますが、城下町岡山とその周囲の各地を解説した下巻は、展示した手書き原稿が示しているように当初は「付記」として考えられていましたが、上巻と対になる下巻としてまとめられたものでした。したがってそれは、歴史に対する深い認識とともに、近代最初の岡山のタウンガイドといってもよい性質を帯びています。
彼のもうひとつの著書『岡山城誌』は、明治に入って陸軍の管轄となったとき、維持・営繕が困難となって大部分の建物が破却されてしまった岡山城について、その沿革を考察し、かつての城郭の全体像を記して、人々の記憶に残そうと試みたものでした。岡山城研究の出発点を画すものとして、現在でもしばしば言及され、引用される名著です。これは明治36年に岡山県から発行されましたが、木畑とともに岡山の歴史遺産の調査と保存に携わった友人たちからなる岡山県地理歴史整理委員の名前で、刊本の冒頭には以下の解題が寄せられています。
維新ノ際 陸軍省令シテ岡山城郭ヲ壊チ 余ス所ハ唯 天守閣及月見櫓ノミ 旧岡山藩士木畑道夫氏 深ク名城ノ跡ヲ失フ事ヲ嘆キ 博ク探リ深ク究メテ此書を著シ 以テ此城ノ起源沿革及築造ノ制ヲ述ブ 其苦心察スベシ 今氏ノ手稿ヲ版ニ附スルニ当リテ 特ニ氏ノ功ヲ挙グルニナン
なお、展示の末尾には、山田貞芳(明治2年生まれ、大正9年没)が中心になって進められた津田永忠の叙位のことを紹介しています。彼は、若き日に木畑道夫のもとで池田家の資料編纂に携わり、やがて短期間の東京遊学の後、旧制金川中学で沼田頼輔、蔵知矩、羽生芳太郎らと教鞭をとり、三門学園の園長を勤めて、大正期には最初の岡山市史の編集委員長を委嘱された人でした。彼は蔵書家として知られていましたが、そのすべてが没後に岡山市立図書館へ寄贈され、3200冊余りの「山田文庫」として保存されてきました。そのごく一部ですが、特に貴重な書物80冊余りは昭和20年の岡山空襲の直前に辛うじて疎開されたため、現在まで当館に伝わっています。
木畑道夫『後楽園誌』への西毅一の序文の原稿
明治21年6月の日付です。西毅一は清国へ留学した経験もあり、練達の漢文の作者で、書も流麗です。木畑道夫とは深い信頼で結ばれていました。木畑文庫096.29/1
木畑道夫『後楽園誌』付記の手書き原稿
『後楽園誌』の下巻は岡山城下町とその周囲の史跡の解説にあてられていますが、この手書き原稿の冒頭部分にあるように、下巻は当初は「付記」として執筆されていました。木畑096.29/3
木畑道夫『後楽園誌』下巻の手書き原稿
「付記」の次の段階のものとみられる、朱字でたくさんの添削が入れられた「下巻」の手書き原稿の冒頭の部分です。木畑096.29/2
木畑道夫『後楽園誌』上下の刊本(明治28年、森禎蔵発行)
木畑文庫096.29/4
木畑道夫『岡山城誌』の手写本の冒頭
木畑文庫には『岡山城誌』の手書き原稿も2冊伝わっています。こちらは堅い紙で表紙が付けられており、手写本と呼ぶのがよいかも知れません。木畑文庫095.2/7
木畑道夫『岡山城誌』の手写本に綴じられた岡山城本丸の図
手写本には手書きで記された色鮮やかな図が綴じ込まれています。しかし本文には朱字でたくさんの添削が施されているので、手写本の体裁である程度の完成をみたものの、さらに推敲を加えたということかも知れません。木畑文庫095.2/7
木畑道夫『岡山城誌』の手写本に綴じられた外堀以内の岡山城の図
この図も鮮やかな色彩で描かれています。刊本ではモノクロの図になっています。木畑文庫095.2/7
木畑道夫『岡山城誌』の刊本(明治36年)の表紙
題字の下に角形の朱印が捺されているとおり、木畑家に伝わってきた一冊です。 木畑文庫095.2/8
木畑道夫『岡山城誌』の刊本の解題の部分
明治に入って、名城といわれた岡山城のの多くの部分が破却され、失われたことを深く嘆いてこの書物が執筆された旨が、この冒頭の「解題」で紹介されています。 木畑文庫095.2/8
壮年の木畑道夫とその子どもたちの写真
今回は展示スペースの都合で出品していませんが、木畑文庫の中には、木畑道夫が娘の佐野、息子の竹三郎とともに明治13年5月4日に撮影された写真がありますので、最後に紹介します。 木畑文庫092.89/151
所在地: 〒700-0843 岡山市北区二日市町56 [所在地の地図]
電話: 086-223-3373 ファクス: 086-223-0093