会期 令和7年5月22日(木曜日)から7月6日(日曜日)まで
※毎週月曜日は休館です。
会場 岡山市立中央図書館 2階 視聴覚ホール前の展示コーナー(入場無料)
<展示の概要>
江戸時代の岡山城下の代表的な商家のひとつ、河本家の人々は学問や文化に関心が深く、貴重な書物や美術品の収集で知られていました。河本家の関係品には散逸したと考えられるものも多いですが、第二次大戦後に直系の子孫の河本太仁治氏など、関係の方々から岡山市立図書館へ多くの資料が寄贈されています。その中から今回は絵画作品を中心に展示し、江戸時代の岡山城下町を彩った有力町人の高い文化を紹介します。
虎の図(川端玉章筆)の部分
江戸時代の岡山城下で活動した豪商のうち、灰屋河本家は蓄えた富を貴重な書籍や美術品の収集に注ぎ、京都の公家や学者と交際して香り高い文化を岡山へもたらした一族でした。
河本家の収集品や関係資料には第二次大戦後までに散逸したと考えられるものがかなりありますが、なお多くの資料が昭和34年に当時の当主の河本太仁治氏から当館へ寄付されており、東京国立博物館に収蔵された国宝の「餓鬼草紙」とともに、かつての河本家の繁栄のさまを今に伝えています。
河本家の人々は、侗居(一阿居士)が郷学の設置をこころざしましたが、子の立軒の代に藩から認められ、それまで蔵書を保管していた施設である経誼書院を活動の場として城下の町民の子弟のために教育活動を行いました。立軒は万巻に及ぶ蔵書を求める人の利用に供し、自ら漢籍の講義を行ったと伝えられています。
近代になっても河本家の後裔の人々は、キリスト教に入信して石井十次らと親交を結び、数々の社会事業に取り組んだ乙五郎氏と、時代の先端を行く画家たちを積極的に支援した太仁治氏の父子の行動から、名望家としての矜持を感じ取ることができます。
そこでこのたびは、(1)河本家の歴代の当主の肖像画と、(2)河本家の人々が収集した作品、および(3)本格的に画技を学んだ河本家の人々の作品を展示し、その一端をご紹介します。
河本一居の肖像(部分)
河本家の巨富の礎を築いた当主の、意思の強そうなまなざしが特徴的な肖像画です。商売には大変厳しい一面がありましたが、国家のために書籍や美術品を収集し、父母には孝養を尽くしたと伝わっています。
明治初期に当主の又七郎(黙軒)が岡山藩へ提出した奉公書によると、河本家の祖先は浮田氏で、池田氏が岡山城主になった江戸時代に城下の商人になったといい、京橋の西詰からやや南の、船着町(現在の岡山市北区京橋町)に本邸を構えていました。
宝暦年間の当主、勝平(一居)は、松前から博多まで全国にわたる交易網を築き、事業を発展させて岡山城下で有数の豪商になりました。そして商用のために各地を旅するうちに、貴重な書物や美術品の収集を行いました。
続く質(巣居)は、河本家で初めて岡山城下の町人社会の代表者である惣年寄の役職に就き、行政にも手腕を発揮しましたが、書物を愛好し、書斎に巣籠るようにして過ごす時間を至福としたことから、号を巣居と名乗りました。以後、河本家の歴代の当主は岡山城下の惣年寄に任ぜられ、町奉行の差配のもとで城下の民政・財政を取り仕切ってきました。
巣居の子、安(侗居、一阿居士)は茶道と和歌、俳諧に造詣が深く、画家の浦上玉堂など多くの人士と交わり、晩年は禅宗に傾倒して宝福寺に入山しました。
侗居の子の儼(立軒)は、父が志した郷学の設置の事業を引き継ぎ、経誼書院を整備して藩の認可を得ました。彼は漢学に親しく、中国風の服装をして漢籍を講義したと伝わっています。そして香道、茶道、花道などの芸能に関する伝書や、雅楽の楽譜などを幅広く学習しています。
こうした歴代の当主の肖像画がいくつか伝わっていますが、その中でも立軒の肖像は異彩を放っています。これは寛政の改革を推進した老中首座の松平定信に画才を見出され、彼の側近の画家、谷文晁の高弟となって後に活躍する大野文泉が『集古十種』の調査のために西日本の各地を旅行し、数え年で29歳になる寛政庚申年(寛政12年(1800))に岡山の立軒のもとにも立ち寄り、画中に「対写」と記載されているとおり、本人を直接目の前にして写生した作品です。したがって本人の個性や特徴が生き生きと描かれている点で、貴重なものといえます。
松平定信が編纂を命じた『集古十種』は、全国の貴重な古器物を調査して作成した文化財図録のような書物ですが、その中に河本家の収集品(古銅器、古鏡、伎楽面、雅楽器)が収録されているのは、このときの文泉の取材によるものです。
河本立軒の肖像(大野文泉筆)
河本立軒像(大野文泉筆)の部分
藤樹先生像(藤原(土佐)光貞筆)
儒教の祭主の姿で表された儒学者、中江藤樹の像です。京都にあった原画から、立軒が許可を得て模写を作り所蔵したものです。作成を依頼した画家は、寛政度の京都御所の造営で装飾に携わった大勢の画家を統率した土佐光貞です。
立軒の長子の会(公輔)は学問への志が止みがたく、京都へ出て上賀茂神社の神官で国学者として知られていた賀茂季鷹に師事し、国学や和歌を深く学んで著作も残しました。そのため家督は弟の曽(訒軒)が引き継ぎましたが、彼も惣年寄などを務める中で国学や書、和歌に親しみました。
公輔の長子の文介(延之)も京都へとどまり歌道の研究を志したので、弟の容軒が岡山で家督と役職を引き継ぎましたが、彼は琴洲と号して京都の画家、中島来章から本格的に画業を学んでいます。同門の画家の川端玉章が幕末の文久3年に岡山の琴洲を訪ねたとき、大隣寺で公開されていた虎を見て、実写した作品が河本家に伝わっています。
京都で生涯を過ごした公輔と延之の父子は、岡山の本家との関係を絶やしたわけではありませんでした。むしろ彼らは都の人士と交わることで多くの情報をもたらし、河本家が公家や高名な学者たちと親交を結ぶのに重要な役割を果たしました。
虎の図(川端玉章筆)
これは玉章の22歳のときの作品です。彼は後に東京へ移り、東京美術学校教授に就任して日本画の画壇の指導的な地位につきます。
「机上俄眠の図」(河本琴洲筆、部分)
詩を吟じ、篆刻をしていたときに俄かに眠りに落ちてしまった様子を、琴洲が軽妙に描いています。
河本定平像(河本家第二代)、雲臥(賛) <河本太仁治氏寄贈品>
河本一居像(河本家第三代) <河本太仁治氏寄贈品>
河本一居像(河本家第三代)、天倪恵謙(賛) <河本太仁治氏寄贈品>
(伝)河本侗居像(河本家第五代) <河本太仁治氏寄贈品>
画家不詳、河本侗居(賛) 「千利休像」 <那須衛一氏寄贈品>
大野文泉(画) 河本立軒像(河本家第六代) 寛政庚申(寛政12年、1800) <河本太仁治氏寄贈品>
(伝)河本公輔像 <河本太仁治氏寄贈品>
(伝)河本訒軒像(河本家第七代) <河本太仁治氏寄贈品>
藤原(土佐)光貞(画) 「藤樹先生像」 寛政7年(1795) <那須衛一氏寄贈品>
渕上旭江(画)、賀茂保考(賛) 「聖像」 <岡長平氏旧蔵・石村雅子氏寄贈品>
河本立軒(画)、河本公輔(賛) 「聖像」 <岡長平氏旧蔵・石村雅子氏寄贈品>
川端玉章(画) 「虎図」 <岡長平氏旧蔵・石村雅子氏寄贈>品
川端玉章(画) 「虎図」、自賛 文久3年(1863) <河本太仁治氏寄贈品>
河本琴洲(画), 不詳(賛) 「机上俄眠の図」 <岡長平氏旧蔵・石村雅子氏寄贈品>
河本延之(書) 「楼上月」 <岡長平氏旧蔵・石村雅子氏寄贈品>
河本家の奉公書 安政5年(1858) <国富文庫「奉公書上」(092.23/12)>
岡山藩への献納金に関する証文 安永4年(1775) <岡長平氏旧蔵・石村雅子氏寄贈品>
河本侗居(一阿居士)の宝福寺への施入の受取状 <岡長平氏旧蔵・石村雅子氏寄贈品>
内裏造営二付御用相勤候画工名前評判記 安政3年(1856)写 <岡長平氏旧蔵・石村雅子氏寄贈品>
中島来章の画の代金に関する文書 <岡長平氏旧蔵・石村雅子氏寄贈品>
所在地: 〒700-0843 岡山市北区二日市町56 [所在地の地図]
電話: 086-223-3373 ファクス: 086-223-0093