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企画展 坪田譲治と大正・昭和の文豪たち

[2026年1月18日]

ID:77497

概要

会期:令和8年1月6日(火曜日)から2月15日(日曜日)まで

会場:岡山市立中央図書館 2階 視聴覚ホール前の展示コーナー(観覧無料)

内容:

 岡山市出身でわが国の児童文学に新しい分野を拓いた、岡山市名誉市民の坪田譲治氏の優れた業績を称え、岡山市が創設した坪田譲治文学賞の発表時期にあわせて、坪田譲治の遺族から寄贈されて岡山市立中央図書館が所蔵している資料を紹介するため、標記の企画展を開催します。

 坪田譲治(明治23年ー昭和57年)は、岡山近郊の農村で過ごした少年時代の体験をもとに数々の小説や童話を発表し、児童文学をはじめとして数多くの分野で顕著な業績を残しました。

 しかし子どもたちを主題とする彼の文学は、いわば未踏の分野でもあったため、一般社会から広く評価を得るには大正期から昭和戦前期までの長い期間を要しました。いっぽう文壇には、早くから彼の作品の真価を認めてあたたかく支えた仲間の作家がありました。そこで坪田譲治が文壇で地歩を得るよりも少し前に名声を確立し、生涯にわたって友情を続けた下記の文学者について所蔵する資料を展示して、坪田譲治の文学を近い世代の文豪たちとの関わりを通して紹介します。

 佐藤春夫(明治25年-昭和39年) 詩人・小説家・評論家、「田園の憂鬱」など、文化勲章受章。

 堀口大学(明治25年-昭和56年) 詩人、「月下の一群」「人間の歌」など、文化勲章受章。

 尾崎士郎(明治31年-昭和39年) 小説家、「人生劇場」「篝火」など、文化功労者。

 川端康成(明治32年-昭和47年) 小説家、「伊豆の踊子」「雪国」など、文化勲章・ノーベル文学賞受賞。

小穴隆一「T君」(昭和16年の春陽会展に出品された坪田譲治の肖像画)の画像

小穴隆一「T君」(昭和16年の春陽会展に出品された坪田譲治の肖像画)

坪田譲治と近い世代の文豪たち

 坪田譲治は、岡山近郊の農村で過ごした少年時代の体験をもとに、生涯を通じて数々の小説や童話を発表しましたが、子どもたちの世界を巧みに描いた独自の小説で昭和戦前期に広く知られるようになり、その後も活動の幅を広げて児童文学を中心に多くの領域で業績を残しました。

 彼は大正期から短編の作品を発表していたものの、その文学は未踏の分野であったことと、彼の名前が文壇に現れようとした昭和初期がちょうどプロレタリア文学の全盛期と重なったため、真価が一般社会の中で広く認められるには長い期間を要しました。しかし早い時期から彼の活動を近くで見て、期待と敬意を注いでいた文学者の仲間もありました。

 そこでこのたびは、坪田譲治の遺族から当館へ寄贈された資料(「坪田文庫」)から、佐藤春夫、堀口大學、尾崎士郎、川端康成の関係資料を展示します。それぞれ坪田譲治と知り合った機縁はさまざまですが、いずれも大正期か昭和のごく初期には文壇に名声を確立し、年齢が少し上の坪田譲治に先んじて文学者として地歩を固めていた作家たちですが、坪田とは終生にわたり心のこもった交友が続きました。

 4人の中で堀口大學は戦後初めて坪田と知り合いますが、ほかの3人は坪田譲治が下積みの苦労を重ねていた頃から真価を認めて励ましてきました。文壇の重鎮として戦後まで活躍する4人の作家との交友は、文学者どうしが互いに認め合い、敬愛する関係について多くのことを教えてくれます。

坪田譲治

 明治23年(1890)生、昭和57年(1982)歿

 坪田譲治が生まれた御野郡石井村大字島田(現在の岡山市北区島田本町)は、岡山市郊外の静かな農村で、ここで過ごした幼少年期の体験が、彼の文学の重要な背景になります。

 坪田は早稲田大学で学び、児童文学に取り組んでいた小川未明の門下となりました。大学卒業後は文芸雑誌に短編を発表する一方、実家の会社の経営にもかかわって東京と岡山や関西を行き来する生活が続きましたが、昭和8年に会社経営から解任されたことを機に、東京へ戻って文学ひとつで身を立てる決意をしました。

 その頃の彼は、鈴木三重吉が発行した児童文学雑誌「赤い鳥」への寄稿などで注目され始めていましたが、一般社会から評価を得るには長い歳月がかかり、ようやく「お化けの世界」(昭和10年)、「風の中の子供」(昭和11年)、「子供の四季」(昭和13年)の3作で文名を確立しました。

 子どもたちを主人公にしてその純真・無垢な心に大人の社会の対立や葛藤を映し出す彼の手法は、小説に新生面を開きましたが、やがて童話や児童文学にも力を注ぎ、民話を語り直すことにも取り組みました。晩年には児童文学の研究のために蔵書を開放して自宅の敷地内に「びわのみ文庫」を設け、昭和38年から児童文学雑誌「びわの実学校」を発行して後進を育てました。

坪田譲治「お化けの世界」の初版本の画像

坪田譲治「お化けの世界」の初版本

佐藤春夫

 明治25年(1892)生、昭和39年(1964)歿

 佐藤春夫は現在の和歌山県新宮市出身の文学者で、詩、小説、評論、随筆など広い分野にわたって活動しました。旧制中学在学中から文学に取り組み、上京して生田長江に師事しましたが、明治43年頃から新詩社で堀口大學と知り合い、慶應義塾大学予科で学んだのち芸術や文学に没頭し、大正6年に「西班牙犬の家」「病める薔薇」を発表して知られると、続いて「田園の憂鬱」「お絹とその兄弟」「都会の憂鬱」を発表して大正期の文壇に名声を確立しました。以後も創作は豊かに続けられ、昭和35年には文化勲章を受賞。多くの後進作家が指導を仰いだ、文壇の重鎮的存在でした。

 佐藤春夫は大正期に児童文学雑誌「赤い鳥」に童話を寄稿していました。それらは異国趣味の強いもので、親しんでいた新約聖書や、彼の文学のロマン主義的な傾向から取り組まれていますが、ここに続く昭和期に「赤い鳥」での作品発表が多くなる坪田譲治と気脈が通う素地があったかと思われます。大正期から文名が高かった佐藤に対しては、坪田の方が2歳年上でも師に対するような敬意を払っています。

佐藤春夫の書(色紙)の画像

佐藤春夫の書(色紙)

堀口大學

 明治25年(1892)生、昭和56年(1981)歿

 日本の近代詩に新生面を開いた詩人、堀口大學は、外交官で随筆家、漢詩人としても知られる堀口長城を父にもち、第一高等学校の受験の失敗から与謝野鉄幹・晶子夫妻が運営する新詩社で文芸活動に携わりますが、そこで佐藤春夫と知り合って終生の親交を結びました。

 そして佐藤とともに慶応義塾予科で永井荷風らに学び、父に従って外遊する機会も多く、フランス語の語感と日本語の文脈を織り交ぜた新しい詩を確立し、「月とピエロ」(大正8年)、「新しき小径」(大正11年)などの詩集で知的な抒情性を注目されました。また「昨日の花」(大正7年)、「月下の一群」(大正14年)などのフランス詩の訳詩集も発表し、川端康成や横光利一ら新感覚派の文学を導く役割を果しました。戦後も活動を続け、昭和54年に文化勲章を受賞しています。

 終戦の前後に長野県の野尻湖畔へ疎開していた坪田譲治は、作家の小田嶽夫の勧めで近くへ疎開していた堀口大學を訪ねます。すると今度は堀口と小田が坪田の疎開先を訪ね、互いに意気投合して親しい交際が始まりました。

堀口大學が坪田譲治へあてた書簡(白桃の贈り物への礼状)の画像

堀口大學が坪田譲治へあてた書簡(白桃の贈り物への礼状)

尾崎士郎

 明治31年(1898)生、昭和39年(1964)歿

 現在の愛知県西尾市吉良町出身の文学者で、早稲田大学政治経済学科へ入学するものの、政治や社会主義運動にひかれ、大学は除籍になります。大正10年に「獄中より」「逃避行」を発表すると、次第に社会主義から離れて文学の活動に専念します。昭和8年から都新聞に「人生劇場」が連載され、翌々年に単行本の「青春篇」が刊行されてベストセラーになりました。これは以後も「愛欲篇」「残俠篇」と続き、国民的な文学となりました。また昭和14年には関ヶ原合戦に題材をとった「篝火」で歴史小説へ活動を広げました。

 戦時中の活動で一時公職追放になるものの、やがて復帰して戦後も創作を続けました。相撲に造詣が深く、横綱審議会委員として活躍したほか、昭和39年に歿した際に文化功労者に選ばれました。

 ともに早稲田大学で学んだ坪田と尾崎は、大正12年に小川未明の文学の会で知り合いましたが、以後2人は終生仲が良く、長年の友情を育みます。昭和10年に坪田譲治の「お化けの世界」が雑誌「改造」へ連載の後に竹村書房から刊行されて成功を収めましたが、尾崎士郎も同じ年に竹村書房から「人生劇場」を発表して絶賛を浴びており、互いに文壇での成功を喜びあいました。

 坪田は、随筆や評論や全集の月報などでたびたび尾崎の飾らない実直な人柄と友人の多さを讃えています。2人は政治や社会や文学に対する立場や思想の違いを超えて幅広い交際相手をもち、誰に対しても変わらぬ友情を続けました。そういう点でも2人は互いに認め合う間柄でした。

尾崎士郎が坪田譲治のために書いた書(色紙)の画像

尾崎士郎が坪田譲治のために書いた書(色紙)

川端康成

 明治32年(1899)生、昭和47年(1972)歿

 現在の大阪市内に生まれた川端康成は、少年期に肉親を次々と喪う不幸に見舞われますが、第一高等学校在学中から文芸活動を活発に行ない、大正13年に東京帝国大学国文科を卒業しました。

 大学在学中の大正10年から雑誌「新思潮」を創刊して「招魂祭一景」で注目され、大正13年から横光利一らと「文芸時代」を創刊して新感覚派の文学者として文壇を風靡します。そして大正15年に「伊豆の踊り子」を発表し、昭和12年の「雪国」で不動の評価を確立しました。戦時中は文学活動を控えていましたが、戦後も「千羽鶴」「山の音」「名人」「みづうみ」「眠れる美女」「古都」などの作品を発表しました。

 川端は昭和33年に国際ペンクラブ副会長に推されて国際的な作家として認められ、昭和26年に日本芸術院賞、昭和36年に文化勲章、昭和43年にはノーベル文学賞を受賞するなど、生涯を通じて社会から高い評価を受けてきましたが、「伊豆の踊子」など少女を主人公や題材にした小説があるとおり、児童文学にも深い理解を有していました。雑誌の刊行に携わりながら若年期に活発に行っていた文芸時評の中で、坪田譲治の初期作品を高く評価し、彼のような作家が下積みの立場に埋もれていることを慨嘆しています。

 川端と坪田の直接の出会いは、妻の宇野千代とともに伊豆半島の湯ヶ島に滞在していた尾崎士郎が、川端もいっしょにいるから、子どもたちを連れてこいと坪田を招き寄せたことでした。坪田は下の子(理基男氏)が5,6歳の頃であったと述懐しているので、それは昭和2年か3年のこととみられます。このときから2人の友情があたたかく続いたことは、展示した川端の手紙も示すとおりです。

川端康成が坪田譲治へ贈ったアンデルセンの肖像画の画像

川端康成が坪田譲治へ贈ったアンデルセンの肖像画

川端康成がアンデルセンの肖像画に添えて坪田譲治へ送った書簡の画像

川端康成がアンデルセンの肖像画に添えて坪田譲治へ送った書簡

展示品目録

関連行事

岡山市立図書館デジタルアーカイブ活用講座

演題:岡山を愛した坪田譲治の人生とことば

講師:山根知子先生(ノートルダム清心女子大学教授)

日時:令和8年1月31日(土曜日) 午後2時から午後4時まで

場所:岡山市立中央図書館2階 視聴覚ホール

定員:60名(電話、メール、または来館で申込が必要です)

お問い合わせ

教育委員会事務局生涯学習部中央図書館

所在地: 〒700-0843 岡山市北区二日市町56 [所在地の地図]

電話: 086-223-3373 ファクス: 086-223-0093

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