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洛陽市の最も古い現存築物
白馬寺斉雲塔院斉雲塔(1175年建築)岡山市の友好都市である中国・洛陽市は、本市の真西約1900kmに位置していますが、旅程だけでいえば、岡山駅を早朝の新幹線で出発すると、その日の夕刻には到着できます。紀元前1900年ごろに「夏(か)」の王都になって以降、西暦946年に滅んだ「後晋」まで13代の王朝がこの地に京城(けいじょう)(隨唐時代は副都)を構えたため、十三王朝の古都と呼ばれている中国有数の歴史的由緒のある都市です。周辺の田圃(でんぽ)と相まって古都のしっとりとした情緒があり、日本の飛鳥地方に通じる古代文化の余韻が感じられます。
漢魏故城・城壁遺構洛陽市の名所旧跡は、著名な龍門石窟(りゅうもんせっくつ)や白馬寺(はくばじ)をはじめ、その由緒を反映して濃密に所在していて、名称を羅列するだけでのページが埋め尽くされてしまいます。多種多様の名所旧跡のうちで、1995年に洛陽市へ初めて行ったときの感動のごく一部を紹介します。
光武帝陵それは、「後漢」と「魏」の京城跡である漢魏故城を踏査できたことです。この京城跡は、日本の弥生時代に「奴(な)」や「伊都(いと)」、さらには「邪馬台(女王が卑弥呼)」のクニの王たちが、朝貢の使を派遣した当時の世界の中心都市でした。場所は洛陽市街地の東15kmの田園地帯であり、城壁跡を横断している国道沿いに小さな標識が設置されています。城壁跡を最初に見た感じでは、麦畑の中に幅7〜8m、高さ5mほどの土手状地形(ちけい)が南北に延びているだけとの認識でした。ところが、田圃道(たんぼみち)を3kmほど北(奥)へ行くと、基底部で幅約30m、高さ約10mもある城壁遺構が延々と残存していて、崩落している壁面には版築(はんちく)技法の造成痕が明瞭に識別でき、これには度肝を抜かれました。版築技法は、日本の古代建造物の基礎地形(ぢぎょう)にも導入されていて、発掘調査でたびたびお目にかかっていますが、両者の技術と規模の格差を目の当たりにさせられた感で、日本のものがその擬(もどき)でしかないことを思い知らされました。
市街地の北東郊外の田園地帯に、版築造成の腰高の大小さまざまな墳墓が累々と展開して壮観をなし、その北辺で黄河に近い場所に、「奴」国王に金印を授けた後漢の光武帝の陵が粛然と横たわっているのも見ものです。
市街地の東約30kmの地に、詩聖と仰がれている杜甫の墓があり、詣でることができたのは予定外の収穫でした。その農村の道すがらに後漢時代の空心磚(くうしんせん)がごろごろしていて、それを貴重な考古資料と思ったのは、華外の未開の遺物に接している私の感傷であり、この地ではありきたりの風景かも知れません。
中原光陰眼前交 百里風薫眺望遥
今来識倭人憬地 洛陽郊外佇城頭中国歴史文化研究会 1995年4月末