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池田光政は寛永9年(1632)に鳥取から岡山に移って来ました。儒学者熊沢蕃山の影響で儒学(特に陽明学)を信奉し、それを藩政に生かすべく努めました。彼は後に朱子学に転じますが、陽明学の根本原理である「知行合一」は一生忘れず、それが彼独特の愛民思想となって現れたのです。
光政の愛民思想は、まさに「知行合一」を地でいく、まじめな実行主義に貫かれています。 |
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1. |
家臣(武士)たちは我れのものであるが、百姓は上様(うえさま 将軍)からの預かりものである。粗末にしてはならぬ。もし百姓が安んじなかったら上様に対して不忠者となる。 |
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2. |
かりに藩の財政が苦しくなっても、家臣たちへの給与は減ずるとも、百姓の納める年貢を上げることはしない。 |
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3. |
災害や飢饉(ききん)のときなどに、百姓がたまたま病気にかかって死ぬことは仕方ないとしても、食べ物がなく、飢え死にするなどのことがあってはならぬ。ぜひ相応の手当てをして飢え人を出すな。もし飢え死にする者が出たら、係りの役人(武士)を処罰する。 |
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池田光政が「知行合一」の実行主義を政治の上に現していたことが、よくわかります。
このころ光政は賤民のあつかいを禁じて、実質これを解放する措置をとっています(『率章録』)。
儒教主義政治は仁の思想を政治運営に生かすことにほかなりませんが、「民が安んじないのは治者の不徳」というのが原則で、そこには責任政治が求められています。封建制度下とはいえ、精神的には立派であったと言えると思います。
池田光政のこの主義・思想を体いっぱいに受けとめ、それを仕事の上に完全に現したのが、実は津田永忠です。 |
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