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長岡花火の歴史は古く、長岡藩10代藩主牧野忠雅の時代、天保11年(1840)に川越移封の命が下り、翌年それが沙汰やみになったことを祝って「合図」を打ち上げたのがその発祥と伝えられています。
本格的な花火は、明治12年9月14日と15日の2日間、千手町八幡神社の祭に長原などの遊廓関係者がお金を出しあって、四寸、五寸、七寸をあわせた花火350発を打ち上げたことが最初の花火大会といわれています。
その後、玉の大きさも尺玉、尺二寸玉の大玉が出現。さらには仕掛け花火や水中花火も見られるようになり、花火技術の向上と新しい花火の開発が進められました。
明治後期には堤防沿い「桟敷」の設置、長岡市大煙火協会の設置など、長岡花火の基礎が確立されました。
大正に入ると花火大会も全市的な催しとなり、玉の大きさも、大正6年に二尺玉、15年にはついに正三尺玉が登場、人々の度肝を抜きました。
大正末期から昭和初期にかけては長岡花火の一大発展期で、全国的にも広く知られるようになりました。
しかし、昭和12年を境に時局は急速に戦争へと傾き、翌年には花火大会も中止となりました。
昭和20年8月1日、長岡市上空に125機のB29編隊が来襲し、焼夷弾による大規模なじゅうたん爆撃を行い、旧市街地のほとんどは焦土となりました。
戦後の花火大会は、昭和22年8月1日、2日「長岡市戦災復興祭」の名で復活。
翌年からは8月1日を戦災殉難者の霊を慰めることに重きを置くことにし、花火大会を2日、3日に変更。
さらには26年からは「長岡まつり」と名称を改めると同時に、正三尺玉の打ち上げが復活しました。
以来、戦後の長岡復興の象徴として再出発した長岡花火は、市勢の発展と歩調を合わせ、名実ともに日本一の歩みを続けています。
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