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現存する岡山城の建物は月見櫓と西丸西手櫓だけであり、月見櫓は忠雄の城普請のもので、1620年代に建てられたと判断されています。この隅櫓は一部地下付きの塗籠(ぬりかご)造り本瓦葺(がわらぶ)き2階建ての建物で、城外側から見ると2層の望楼(ろう)型の外観ですが、城内側が3層の層塔型の様相になり、城の内外では異なったたたずまいとなっています。 城郭防御の隅櫓として、城外側には戦闘装置を設けていますが、2階の城内側の東面と西面は、雨戸立てで開け広げた造作であり、日常の生活仕様となっています。表書院での政務の一環として、月見をはじめとした四季の眺望と小宴を日常的に催すのにも格好の和戦両用の施設整備といえます。 岡山城の近代改装と、藩政の機構の整備を果たした少壮の藩主の忠雄でしたが、家臣の刃傷(にんじょう)事件から旗本たちと対立し、不本意のうちに31歳の若さで病没しました。遺命により、講談などで有名な荒木又右衛門の伊賀越えのあだ討ちが、2年後に果たされました。 |
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(岡山市教育委員会元文化財課長 出宮徳尚) | ||||
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