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豊臣秀吉から「五もじ」こと豪姫に宛てた自筆の手紙。「はやばや大めいこく(明国)いづれもゆる(許)し候まま」とあるので第一次朝鮮出兵(文禄の役)の講和のため明使が訪れた文禄2年(1593)のものと考えられる。豪姫が夫宇喜多秀家の帰還について問い合わせたのであろう。秀吉はまもなく戻ってくるから安心せよ、またお目にかかってお話ししよう、と述べている。同年10月7日に催された禁中能に秀家の出演していることが知られるから、本状発給ののち本当にすぐに秀家は戻ってきたのであろう。
秀吉は豪姫を大変かわいがり、陣中から「おね」に宛てた手紙などでもしばしば近況を尋ねたりしているが、本状と同じ文禄2年のものと考えられる「おね」宛の自筆書状では、「男にて候はば、関白を持たせ申すべきに、女房にて候まま、是非なく候」「太閤秘蔵の子にて候まま、ね(祢)より上の官に致したく候」「位は太閤位ほどにいたし申すべく候」とまで語っている。
一方豪姫の夫秀家の方も秀吉から大変期待されていた。天正20年(1592)5月18日付の関白宛秀吉朱印状は、朝鮮を経て明国を制覇したのちの青写真を記したものとして著名であるが、その中で秀吉は、天皇を北京に移し、秀次は中国の関白となるので、そのあとの日本の関白には秀次の弟秀保か秀家のどちらかを据え、日本の天皇は良仁親王か智仁親王、朝鮮の支配は織田秀信もしくは秀家、九州は秀俊(のちの小早川秀秋)に委ねるつもりだ、と述べている。
豪姫と秀家が、いかに秀吉期待の若きカップルであったかが知られよう。
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(釈分)
はやばや大(「め」脱)いこくいつれ
もゆるし候まま、八郎も
十月(ママ)ころニハかいちん(開陣)可申候、
心やすく候へく候、
めてたく御めにかかり候て
可申候、
かしく
十月一日
〆
五もしへ 大かう
返事 |
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