■寛延3年(1750)生〜文政元年(1818)没
■城主期間 宝暦14年(1764)〜寛政6年(1794)
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父・池田宗政 母・藤子(黒田継高娘)
正室・米子(酒井忠恭娘) |
■別称 敏政、新十郎、一心斎
■叙位叙任 従四位下、左近少将
■法名 顕国院殿大徹一心大居士
■墓所 岡山市円山 曹源寺内池田家墓所 |
■「越中に越されぬ山」
池田宗政の嫡男として江戸藩邸に生まれる。宝暦14年(1764)、父・宗政の病没により遺領31万5,200石を相続し、翌年入国して岡山藩政を執った。幼少から利発・聡明で、藩主となっては剛毅果断、前例にとらわれず実力本位の人材登用を行い、治績を高めた。老中・松平定信の寛政の改革を批判、倹約令にも平然と従わず、「越中に越されぬ山が二つある、京で中山、備前岡山」とうたわれたという。
■教育振興
こうした気骨を示す一方で儒教を重んじ、藩学校と閑谷学校(しずたにがっこう)を再興して教育の振興に努めた。文才に優れ、書画をよくし、特に太字の書を好み藩内の社寺に社号・寺号を奉納している。また、俳諧も得意とした。寛政6年(1794)、長男・斉政に藩主の座を譲って隠居、江戸大崎の別邸に移り、出家して一心斎と号した。のち岡山に帰るが、このとき「富士さらば また絵であはう 国隠居」という句を残している。文政元年(1818)岡山城にて没、69歳。 |
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●池田治政書 |
「酒百楽之長」
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