今年で終戦から70年を迎えます。
節目を迎えるにあたり、戦争を題材にしたドラマや新聞記事などを通じて、戦争の悲惨さや平和の尊さを学ぶ機会がふえてきています。
しかし戦争に関する情報を発信しているのは、マスメディアだけではありません。
資料館などの「場」で、戦時中の写真や物品を見たり、語り部さんの生の声を聞いたりすることができます。
岡山シティミュージアムの5階にある「岡山空襲展示室」(以下、展示室)では、岡山空襲の記憶を後世に伝えていくために、当時の資料が展示されています。今回のESDカフェでは、展示室で学芸員を務める猪原さんをゲストに迎え、「戦後70年岡山空襲から考える~戦争の記憶、平和への思いを継承するためには?~」をテーマに話し合いました。
岡山空襲の様子(岡山空襲展示室提供)
岡山空襲があったのは、1945年6月29日(金曜日)のこと。アメリカ軍によって、岡山市の中心市街地に焼夷弾が投下され、市街地の約63%が焼け野原となりました。この空襲によって1,737名以上の方が命を落としたといわれています。
展示室では、岡山空襲の記憶を後世に伝えていくために、空襲で亡くなった方の遺品や写真、実際に空襲を体験した方の証言をもとにつくられた資料、アメリカ軍が残した記録などが展示されています。
猪原さんは、それらの展示物や資料をもとに「アメリカ軍の記録」と「空襲の被害にあった方の記憶」という二つの視点から岡山空襲について紹介しました。
まず、猪原さんが取り出したのは焼夷弾のレプリカ。
この焼夷弾は岡山市の中心市街地に投下されましたが、現在の岡山大学(津島キャンパス)周辺におかれていた陸軍の拠点は標的にされませんでした。
焼夷弾のレプリカ(岡山空襲展示室提供)
では、一体何を標的にした攻撃だったのでしょうか。
アメリカ軍の記録によると、日本では一般の民家が日本軍の武器の製造拠点になっていたと考えられており、それらを攻撃するために行われたといわれています。また日本全国の都市を空襲で焼き払うことで、日本の戦意を喪失させ、降伏させるというアメリカ軍の作戦があったそうです。
岡山市中心市街地の半分以上が焼き払われた中で、空襲で亡くなった方の遺族や空襲を生き延びた方が大事に保管してきた写真や物品。これらは、空襲で亡くなった方の「個人の情報」や、「空襲を生き延びた方だけが知っている情報」を伝えることのできる大変貴重な資料となります。
以前は「空襲を思い出したくない」という思いから、当時の写真や物品を見ることを拒否する方もたくさんいたそうです。しかし、最近は「空襲があったという事実を後世に伝えないといけない」という思いから、展示室に写真や物品を寄贈する方が少しずつ増えているのだとか。展示室では、資料とともに寄贈する方の思いや亡くなった方の人生を一緒に伝えることができるように、レイアウトや紹介文章を工夫しているそうです。
近年は戦争を実際に体験した世代の高齢化が進み、戦争を体験したことのない世代が「戦争」について語りつぐようになっています。
「実体験のない戦争のことを後世に伝えていくためには、資料をもとに客観的な視点から戦争を理解していくこと。そしてできるだけ個人の感情や主観を交えず、事実にそむかない伝え方を考えていくことが非常に重要です」と猪原さん。そこでESDカフェの参加者も、「これからの持続可能な社会づくりに向けて後世に戦争の記憶をどのように伝えていくか」について話し合いました。
参加者からは、次のような意見があげられました。
岡山市市民協働局ESD推進課 小西・友延
電話:086-803-1354
電子メールアドレス:miki_konishi@city.okayama.lg.jp