(初出 雑誌『新女苑』第11巻第2号 1947(昭和22)年2月)
(収録本 『坪田譲治全集第9巻』 新潮社)
ノートルダム清心女子大学 3年 吉原明子
私が、最初に「一人の子供」を読んだ時、このような時代があったのか、戦争に振り回される子どもがかわいそうという程度の浅い読み方しかすることができなかった。しかし、作品の同時代の背景がわかったことで、新たに坪田譲治がどのようなことを読者に伝えたかったのか、別の見方ができるようになった。
まず、「一人の子供」のあらすじを紹介したい。
主人公である一郎とその同級生たちは1945(昭和20)年10月の初めに疎開先である愛媛県の土居から大阪の此花区へ帰ることになる。この話を聞いた大勢の子ども達は大喜びしたが、一郎は素直に喜ぶことができなかった。なぜなら、それまでは毎月届いていた父親からの手紙が4ヶ月前から途切れてしまったためである。疎開先から一郎が通っていた大阪にある学校に帰ってくると、多くの同級生の親類が迎えに来ているなか、一郎の親は来ず、隣組の上山というおじさんが迎えに来た。上山の話によると一郎の家は1945(昭和20)年6月29日の空襲で焼けてしまい、さらに父親はそれから2ヶ月ほどして亡くなっていた。
それから一郎は叔母の家に預けられたが、叔母は一郎を養う余裕もなく、鳴尾に住んでいる一郎の姉の家に連れて行かれた。しかし、そこでも一郎を預かることはできず、神戸にある、身寄りのない子どもたちの収容所へ行くことになった。
収容所へ行くと叔母の家を出るときに持たされた蒸し芋を、部屋の大将だと名乗る大下という子に食べられてしまう。そのとき一郎は変なところに来てしまったと思うが、「ここに一生いて、お父さんの立派なアトトリにならなければ」と決心するのであった。それから2ヶ月ほどたつと大下とその手下の2,3人が一郎をいじめ始め、一郎は我慢ができなくなってきた。3ヶ月目には一郎は逃げ出したいと思うようになっていた。1945(昭和20)年の年末、一郎は大下に炊事場から芋を盗んでこいと命令される。以前にも一度大下に言われ、盗んできたことがあったのだ。しかしその時に二度と盗みなどしないと父親に誓っていたため、一郎ははっきりと命令を断る。すると大下は明日の夜ひどい目に合わせると言って一郎を脅した。一郎は不安になり、次の日には収容所を抜け出し、神戸の三宮駅へ向かった。
三宮駅で手持ち無沙汰にしていると漁師のおじさんにひろわれ、家島という島の港へ連れて行かれた。一郎は「ぼくも今度こそしんぼうして、一生ここにおいてもらい、大きなタイをとったり、大きなタコをつかまえたりしてくらそう」と決心し生活していたが、漁師の厳しい仕事に慣れることができず、翌1946(昭和21)年の3月朝、誰にも言わずに船に乗り、再び三宮駅に帰ってきてしまった。それ以来、一郎は半年ほど三宮で浮浪児として生活した。そのうちに友人ができ、その友人と東京へ行くことになった。
それから東京の上野駅で一郎のような子どもたちが住んでいる寮に来ないかと誘われ、一郎はそこに住むことに決め、「今までボクは、度々決心をやぶりましたが、今度こそ、ここに一生でもいて、お父さんの立派なアトトリになろうと思います」と決心するという話である。
次に作品を読み深めていくうえで「一人の子供」の時代背景について注目すると、まず、本文には「キミの家もおじさんの家も六月二十九日の空シュウでやけてしまったんだ」とある。そこで大阪府の6月29日戦災について調べたところ、「1945 6・26 第五次大阪大空襲。住友金属と大阪陸軍造兵廠が主目標、死者681人被災者4万3339人」(『新修大阪市史第十巻』平成8年 大阪市)という記述から、日にちは異なっているが作品の空襲は第五次大阪大空襲を指している可能性が高いと思われる。また、作品中の同年6月29日は坪田譲治の出身地である岡山で岡山空襲があった日であることから岡山空襲への坪田の思いが重なったものと考えられる。
この第五次大阪大空襲について、米軍の主目標とされた住友金属の所在地は此花区であり、作中にも一郎の父親は「大阪の此花区で、鉄工所へでていたんです。そこの職工だったんです」と、説明されていることから作品の地名通り作品の空襲は第五次大阪大空襲を指しているといえる。
以上のことから、「一人の子供」に寄せた坪田譲治の思いを考えると、坪田は読者に、健気な一郎の姿を通して戦争の残酷さ、理不尽さを伝えたかったのはもちろんだが、それだけではなく主人公である一郎のように戦争という逆境に負けずに強く生きて欲しい、何度挫けても諦めず生きぬいてほしい、といった思いを伝えたかったのではないかと考えた。そこには、最後の場面の一郎の「今までボクは、度々決心をやぶりましたが、今度こそ、ここに一生でもいて、お父さんの立派なアトトリになろうと思います」という決意からもうかがえるように、父の愛情を受けとめ父の伝えてくれた誠意をもって強く生きる意志を継ぐことで、自分の生きる意味を見出し、未来に目標と希望を持って生き抜こうとした一郎の強い意志が読み取れる。
このように「一人の子供」という作品は、戦争をはじめ様々な苦難を背負って生きる全ての子どもに、坪田が贈った激励の作品だったのではないかと思われる。
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