(初出 『大阪毎日新聞』1927(昭和2)年4月1日)
(収録本 『坪田譲治全集 第1巻』 新潮社)
ノートルダム清心女子大学 大学院博士前期課程 1年 只野智子
坪田譲治の小説「虹」は、幼い子どもを亡くした父親を描いた作品だが、1927(昭和2)年4月1日の『大阪毎日新聞』に掲載されるという時代状況のなかで、「インターナショナルの合唱」が印象的に何度も登場する。私は、この「インターナショナル」という歌の登場によって、父親の心理にどのような意味が見出せるのかをめぐって、この歌に関心をもって、作品を読み進めた。
物語は、夜の9時頃、「インターナショナル」が歌われている賑やかなバーの暗い片隅で、2人の男が静かに話し合っているという場面から始まる。1人は幼い子どもを失った男で、もう1人の友人が、勤め帰りのバーに誘い一緒に酒を飲むことによって、その心を慰めようとしていた。子どもを失った男は、自分を気遣う友人の励ましを受けながら、我が子との思い出や後悔の念を話し出し、やがて我が子の最期について話し始めるのであった。
その際、父親が友人に慰めと励ましの言葉を受けて子どもの話をし始める前の物語の序盤や、子どもとの思い出や後悔を述べた物語の中盤、そして子どもの最期を話し終えた物語の終盤など、物語の節目ごとに「インターナショナル」の歌が周囲から聞こえているのである。そこに、何か大切な意味を見出せるように感じたため、調べたところ、これは革命歌であり、公的な場で初めて歌われたのは、日本共産党が創立された1922(大正11)年前後からで、以後この小説「虹」が発表された1927(昭和2)年までの時代背景のなかで広まった革命歌であること、また歌っている人たちは「青服」とあるように労働者たちであることがわかった。
また、この歌の歌詞を調べてみると、次のような内容であった。
それでは、このような革命歌が、当時どのように歌われていたのだろうか。当時の新聞をみると、『東京朝日新聞』(1921(大正10)年4月9日)の「坑内で革命歌 作業道具を携帯せず悉く空手で入坑」という記事では、過酷な労働を強いられていた労働者が、待遇改善を求めてストライキを行った際に革命歌が歌われていたとされている。また、『東京朝日新聞』(1931(昭和6)年7月17日)の「革命歌を合唱し傍聴人検束騒ぎ」という記事では、「突然革命歌を歌ひだしたところ、ほとんどその大部分がこれに和して裁判所正門前で声高らかに歌ひだした」とあるように、第二次日本共産党事件公判第6日が行われる東京地方裁判所の正門前で、押し寄せた傍聴者5、60名の大部分によって大声で革命歌が合唱されていたとある。新聞にみられるこれらの出来事から、当時の革命歌の合唱には、困難に立たされている現実を変えていこうと決起する人々の思いが込められていることがわかる。
これらのことから、革命歌のひとつである「インターナショナルの合唱」にも、歌詞に「いざ戦わん、いざ、奮い立て」などとあることから、辛い労働生活を社会に強いられていた労働者による、逆境のなかでも決して屈せず立ち向かい、苦しい状況を打破していこうという叫びが込められていることが考察できるのである。
作品の描写に戻ると、「インターナショナルの合唱」は、物語の終盤に近づくにつれて大きくなっていっている。父親が子どもの話をし始める前には、7、8人で歌われていた「インターナショナル」が、父親が子どもとの思い出や後悔を口にしていくにつれて、一層声を張り上げて歌われているのである。さらに、物語のクライマックスに父親は、子どもについての思い出を話し終え、悲しみを全て吐き出した直後、一度は止んでいた「インターナショナルの合唱」が、4倍にも5倍にも増えた青服の人々によって再び歌われだしたことに気づく。そして、彼は、青服の人々が、バーから出ていき町のなかで行進を始め、どんどん人を加えていくことによって「インターナショナルの合唱」の勢いを増し続けていく様子を耳にしている。このように「インターナショナルの合唱」は、父親の言動を受けて次第に大きく力強くなっていっているのだ。これは何故なのだろうか。
はじめに、父親は、慰めようとしている友人が、子どものことを思うのはもう止せと制止したのに対し、夏に郊外へ子どもを散歩に連れて行き、小さな川の縁を歩いた時の思い出を語り出す。その語りのなかで父親は、子どもが銀色に光る美しい遠くの雲の峰を見て、あそこへ行きたいと思わないかと問いかけてきた時に、その問いかけに一種の弱さを感じ取り、子どもの将来のためにその弱さを断ち切っておこうと、子どもの考え方を否定し、突き放すようなことを言った。しかし、そののち、子どもが亡くなってから考えてみると、その言葉に子どもが寂しそうな表情を見せていたことや、若くして亡くなったことから、美しい空想を無理に壊すようなことをしなければ良かったと後悔するようになったと語っている。
次に、父親は、子どもが最期を迎えた、夕陽が美しかった午後4時頃の様子を語り出す。彼は、連日高熱を出して寝ている子どものために何かしてやりたいと考え、先程帰ったばかりの医者を呼び戻しに行こうとした。しかし、その間に氷枕の氷がとけてしまってはいけないと思い、急いで氷を割っていた時、井戸端で遊んでいる我が子の姿を見つける。そして、子どもが楽しそうに遊ぶ姿や、ポンプからひとりでに溢れ出し、日を受けてキラキラと美しく光る井戸水をその小さい手で受け止めている姿など、現実では起こり得ないような不思議な光景を穏やかな心で見ていた。ところが、その直後、彼は西の空に浮かんだ五色の虹が天にかかったのを見た時、突然妻に呼ばれ、驚いて病室に駆け込んで呼びかけたが、子どもが既に息を引き取っていることに気づく。彼は余りにも不思議な経験から、子どもの死に涙も出ず、未だに何処かで子どもが生きているのだという気がしてならないと語っている。
最後に、父親は、やがてこの国に困難な時代がやって来ると述べ、それを考えると、子どもが幼く多くの空想を抱いたままに亡くなったことは幸福なことであったのではないかという、子どもを失った後の心情を語っているのである。
これらの語りの内容や父親の考え方と心情からは、どのようなことが読み取れるだろうかと考える際、私は父親の視点の変化が読み取れるのではないかと考察した。
父親が子どもとの思い出を語った際、思い出のなかの父親は、子どもの持つ美しく銀色に輝く雲の峰の方に行きたいという考え方や視点を否定している。困難な時代がやって来るこの国のなかで生きていくために、そのような弱さを持っていてはいけないという現実を見据えた視点を持っていたからである。しかし、その視点も子どもが亡くなったことによって少しずつ変化がみられ始める。子どもが最期を迎えた時、彼は美しい夕陽のなかで、高熱で寝込んでいる筈の我が子が井戸端で遊んでいる姿や、西の空にかかる五色の虹という現実では起こり得ない不思議な光景を見たことによって、子どもの死を受け入れられず、未だ何処かで生きているのではないかという気持ちを抱くようになる。加えて、子どもが亡くなった今では、辛い現実のなかで生きるより、多くの美しい空想のなかで亡くなったことを幸せだったのだと語るようになっているのである。
これらのことから、父親の視点に変化がみられていると考えられる。つまり、はじめは困難な時代を迎える現実を見据えていた父親の視点は、子どもが持っていた、現実的な世界を越えた世界を見る視点へと次第に変化していき、物語の終盤では、その子どもの視点を受け入れ自分のものとしているのである。
さらに、この父親の視点の変化は、私がこの作品を初めて読んだ時に気になった「インターナショナルの合唱」の大きさと強さに大きく関係しているものであると考察できる。「インターナショナル」は、はじめに当時の新聞記事や歌詞から考察したように、辛い現実に立ち向かい現状を打破しようとする革命歌であり、「青服の連中」は革命を志す現実に視点を注いだ人々である。しかし、父親は、はじめこそは「インターナショナル」の歌詞や「青服の連中」と同じ視点を持っていたものの、物語のなかで子どもと同じく、現実から離れ、現実を越えた世界を見る視点を次第に強く抱くようになっていった。そして、物語の終盤でそれを受け入れることによって、現実を越えた世界を見る視点を彼のなかで強めている。
これらのことから、父親は、子どもと同じく現実を越えた世界に視点を向けていくことによって、自身の視点が、「インターナショナル」の持つ視点から乖離していくことを自覚したことから、大きくなっていく現実的な視点への違和感とともに、それを象徴している「インターナショナルの合唱」も次第に大きく激しく聞こえるようになっていったということが考えられる。
そののち、物語の終わりにおいて、「インターナショナルの合唱」は、勢いを増しながらも次第に父親から遠ざかっていく。この時、父親は、「インターナショナルの合唱」に象徴される現実的な視点から解放されたと考えられるだろう。こうして父親は、子どもの美しく銀色に輝く雲の峰の方に行きたいという考え方や視点を共有できた安堵が得られたといえるのである。
参考文献
・不破哲三『マルクス、エンゲルス 革命論研究 上』(2010年1月 新日本出版社)
※引用文中の旧漢字は新漢字に改めた。
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