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−第36回(平成16年度)− |
静まり返った老人病棟の午後九時、私は長い長い廊下のクロス(壁紙)を貼り替えていく家業はクロス屋、納期は今日中 突然、半開きの病室のドアーが全開すると、七十年配の男性が叫ぶ オーイ直人 オーイ幸雄 早う出てこんか 女が仕事で苦労しとる 早う出てきて 手伝うてやれや 海の青さを思わせる、ブルーのパジャマを着た彼の瞳は、大きく揺れ動く 負けまいと、肩をいからせた、わたしのうしろ姿と まだまだ逞しかった両腕の中に、小鳥のように遊ばせていた頃の、我が子との間を 大きく揺れ動く 男性は懸命に息子達の名を呼ぶ しかし、はるかな、はるかな直人は幸雄は、男性が掛ける声の懸け橋を、決して渡ってはこない 私が唇に人差し指をあてると、男性も唇に指をあてる 足音をひそめて、クロスを貼り替えていく 男性との距離を、五メートル程離した頃、彼の叫び声をまた背中に聞く オーイ直人 オーイ幸雄 早う出てこんか おんなが仕事で苦労しとる 早う出てきて 手伝うてやれや 彼の瞳が、はるかな息子達から、わたしのうしろ姿へと動く刹那、長い年月にも、男性自身の変化にも、枯れることのなかった、やさしさの泉が、ほとばしる その雫は、私の背中から染み込んで、全身へと行き渡り、いからせた肩が、ゆったりと呼吸を始める 指先に力を蘇らせて、またクロスを貼り替えていく 思いのほか、仕事は、はやく完成するようだ |
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