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−第28回(平成8年度)− |
近くの屋根の上で大きな鳥の鳴き声がした。鴉である。つぎに、ボッボウと鳴くのは電柱にいる鳩。鴉と鳩が去ったあと、さざ波のように聞えてくるのは、街路樹の中で目覚めた小鳥たちの鳴く声。 街なかにある病院の四階の病室で、夜明け前のひととき、鳥の鳴く声に耳を澄ます。 午前五時半、そろそろ検温の放送がある時刻である。この病室は北側に大きな窓があって、黄色いカーテンがついている。 ベッドの夫に声をかける。 「カーテンを開けましょうか」 「ああ。体温計を取ってくれ。けさも鳥の声がうるさかったなあ」 私は笑って頷きカーテンを引く。 夫が胃の全摘出手術を受けて二週間すぎた。 「今年は、とうとう花見ができなかったなあ」 「残念だけど、来年したらいいじゃないの」 脈をとりながら看護婦が答えている。 「そう、楽しみは先の方がいいわ」 側で私も相づちをうつ。 夫が入院したのは四月はじめ、桜は八分咲きであった。 旭川堤の桜並木の下をタクシーで通った。 その前日まで、好きな酒をおいしく飲み、食事も残さず食べた。顔の色艶もよかった。 ボストンバッグを持ってタクシーにのった夫の表情は、まるで旅にでかけるような気楽さであった。 レントゲン写真の夫の胃は、私でもハッと思うほど変形していた。 手術は医師の説明によると、気持がよいほど悪いところを取り除くことができたという。 私も娘も奇跡的と思い感謝した。しかし、きびしい状況ではあった。 五月のゴールデンウィークの生き生きとした騒音は病室にもとどくようだった。その連休明け、二度目の手術を受けることになった。 呼吸をらくにするのと痰をとるため喉の切開手術も受け、夫は話せなくなった。 夫が亡くなる五日前だったと思う。 ICUへ面会にいった私と娘に、夫は左の掌に右の指で文字を書いた。その文字の「生」という字のつぎを書きかけたとき、夫の頭上でピッピッと医療器の音がした。苦しそうに顔をしかめ、手をおろした。 明日、もう一度書いて、と夫に呼びかけた。 翌日の面会時間、夫の意識はなかった。 旭川堤の桜並木は、葉のしげりになっていた。見上げると小さい青い実がついている。「生」の一字。生きたい。生きられない。 夫は、どう話したかったのか。 「生ビールが飲みたい、と言いたかったのよ」 そう言って娘は笑う。あるいは、そうかもしれない。 来春、八分咲きの桜の下をタクシーで行くあなたを、私はきっと見ると思う。 満開の花の下に筵を敷いて、待っています。 書き残した「生」の続きを教えてください。 |
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