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−第38回(平成18年度)− |
飼い犬「ワン」の異変に気がついたのは、去年の、松飾りが取れる頃だった。 散歩の途中、突然、道路にうずくまる。身をアスファルトからはがすようにして抱き上げると「クンクン」と鳴き声をあげる。 そうかと思うと、川に向かって突っ走ったりもする。ゆるい首輪をするりと抜けて、川へ飛び込み、犬掻きを披露したときもある。 診察をお願いした獣医は、思いがけないことを言った。緑内障で全盲に近いと言うのだ。「手術をする医師もほとんどいませんねえ」 私の質問に答えて、獣医は続けて言った。 夕食のとき、夫は言う。 「日赤の眼科へワンを連れていったら、先生どんな顔をするじゃろうなあ」 私は大声で笑った。笑っているうちに、涙がにじんできた。 九年前、ふらりと、犬が、我が家にやってきたのは、蝉時雨のなかだった。薄汚れた毛。すぐに身をすくめるしぐさ。野良犬生活の長さがしのばれる。 夫がしっぽを引っぱって「おい、ワン」と呼んだとき、犬の名は決まった。洗ってやると、ふさふさとした白い毛に、茶色のボタンのような目。愛嬌のある犬だった。 「犬は人間様の余り物を食べとったら、ええんじゃあ」 夫の、こんなセリフが聞こえたのかもしれない。余ったご飯にみそ汁をかけただけのbを、喜々として、口に運んだ。 お年寄りや子供には、キャンキャンと吠えたてる。そのくせ強そうな人がくると、頭を垂れて、犬小屋へ退散してしまう。 そんなワンの目が見えなくなったのだ。 次の日から、私はワンの盲導人となった。 三キロ程先の原っぱへ、中型犬のワンを抱いていく。車の音も人の声も届かない野原で、ワンは一日、一日と落ち着きを取り戻した。 一週間もすると、思いきり前足をあげて、得意気に走った。「ほらほらボクを見てよ」 と言わんばかりだ。 十メートルも走ると、立ち止まって振り返る。「ワン」と呼ぶと駆けよってきて、私にじゃれる。骨ばった背中を、二、三度叩いてやると、また、走っていく。 風が過ぎてゆく。冬枯れの蓬やすすきを揺らしながら。その音に包まれて、ワンと私は、昼下がりのひとときを、しばらく過ごした。 今では、私が持つ鎖の先、道路でも颯爽と歩く。 「ワンちゃん、目が見えるように上手に歩いて、健気じゃなあ」 近所の奥さんに声をかけてもらうと、言葉が分るのか、しっぽを大きく振る。 遠雷が聞こえる。ワンは歩みを止めると、音を確かめるかのように、ピンとたった耳をかすかに動かした。 |
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