このページは、岡山市の歴史を深掘りし、新しい発見を味わってもらうとともに、郷土への愛着と誇りをもっていただくことを目的として制作しました。
まずは、日本の歴史の流れと、その中で吉備(岡山市)で起こったできごとを比べてみましょう。
教科書などでよく知っているできごとと同じ時期に、私たちが今暮らす岡山市でどんなことが起こっていたのでしょうか。
(2)「戦国宇喜多の再評価」について、詳しくはこちら
今後もコンテンツを追加していきます。お楽しみに!
岡山に住んでいると、桃太郎でおなじみの「吉備団子(きびだんご)」を始め、「吉備」という言葉はよく耳にしますね。
吉備とは、古代の地名です。岡山市は、その中心を占めていました。具体的には「備前国」「備中国」「備後国」「美作国」を合わせた範囲で、現在の行政区域に置き換えると、岡山県全域と広島県の東半域に相当し、とても広い地域だったことがわかります。
吉備は温暖な気候と広く平坦な平野を持つことに加え、東から吉井川、旭川、高梁川の三大河川などを水源とする豊かな生産力と瀬戸内海の海運を備え、古代から発展する環境に恵まれた地域でした。
これを原動力として強大な勢力が形成され、実に数多くの古墳が築かれています。特に、現在の北区新庄下にある造山古墳は墳長が300mを超える超巨大古墳です。これだけの超巨大古墳は、大和王権の中心地である奈良県と大阪府にしかありません。
つまり吉備は、大和王権と同等の勢力を持った地域だったのです。その後も、恵まれた地勢や環境などに裏打ちされ、継続性と安定性の高い社会が持続されました。
岡山の歴史を知るうえで重要なものの一つが「古墳」。
歴史の授業で習ったことがあっても、もしかするとあまりピンとこない人もいるかもしれません。
実は、岡山県は古墳の数が全国第5位(令和3年度文化庁調査)。住宅街の中に現存する古墳もあります。
岡山に住む私たちにとって、古墳はとても身近なものなのです。
日本(古墳時代における倭国)においては、「大和王権」という政治勢力が政治の中心となっていたことは良く知られています。
しかし、古墳の大きさなどから読み解くと、実はここ岡山市(吉備)も、大和王権と同等の権力をもち、協力して「二頭政治」を行っていた可能性があるのです。
岡山市歴史調査専門監(産業観光局観光部観光振興課内)
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