[2025年5月22日]
ID:71250
「二頭政治」とは、最高権力者が2人いる政治形態のことです。
日本(古墳時代における倭国)においては、「大和王権」という政治勢力が政治の中心となっていたとされています。
しかし、実はここ岡山市(吉備)も、大和王権と同等の権力をもっていた可能性があるのです。
その理由について、詳しく見ていきましょう。
西暦5世紀初頭、今から1,600年前に岡山市北区新庄下に造山古墳が築かれます。日本で4番目の大きさの前方後円墳とされてきました。しかし、発掘調査がすすみ、1番目や2番目よりも古い時期に築かれたことが明らかとなってきました。3番目は大阪府の上石津ミサンザイ古墳で、墳長が360mです。造山古墳は350m。僅か10mほどしか差がありません。しかも同じ時期には、墳長が300mを超える古墳は見当たりません。圧倒的に巨大な古墳が、大和王権と吉備の2か所だけに築かれたわけです。
古墳の大きさは、葬られている王の勢力を示しています。さらに興味深いのは、最古の歴史書である『日本書紀』によると、吉備出身の女性と大和王権の大王の婚姻関係を示す伝承や、中央から派遣された地方官である国造のなかに吉備出身の豪族も認められることです。吉備と大和王権は極めて親しい間柄であり、しかも大王と同様に各地に身内の豪族を派遣していたことをうかがわせています。
岡山市では、以上のことを根拠にして、少なくとも5世紀初頭は、吉備と大和王権が協力して倭国を治めていたという仮説を提示しました。政治的に二つの核があったということから「二頭政治」と呼び、新たな倭国論としています。
5世紀初頭、吉備の王は大和の王と並ぶ影響力を持ち、倭国において二頭政治を展開していた可能性があります。
吉備と大和は協力しながら共同統治を行い、大陸からの脅威に対応していたのではないでしょうか。
この時代の倭国は百済、伽耶と結び、新羅と結んでいた高句麗と戦い、朝鮮半島との交易路を確保していたのです。
岡山市歴史調査専門監(産業観光局観光部観光振興課内)
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