[2025年5月22日]
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岡山市のまちは、誰によってつくられたのでしょうか?
それは備前国と美作国の戦国大名で、宇喜多直家という人物です。
現在も地名として残る「石山」にあったという城を戦国時代に宇喜多直家が手に入れ、本拠地としました。
今に残る本丸は、その子秀家が築いたものです。(昭和41年に再建)
「令和の大改修」を経て、内部では、歴史学者・磯田道史氏監修による岡山の歴史の展示を体験することができます。
宇喜多直家について語られる際、「裏切り」や「暗殺」などのキーワードを出されることが多く、斉藤道三・松永久秀と並ぶ悪人とされ、戦国時代における「三大梟雄」の一人と言われてきました。
しかし、物語を中心とした軍記物や伝承などを同時代に書かれた一次史料から丁寧に検証したところ、直家公の行動には、野望などよりも備前国を統一するためといった合理的な理由があったこと、さらに直家公を貶める後世の創作もあったことなどの可能性が明らかとなってきています。
直家公は、祖父(諸説あり)能家が殺され、備前国邑久郡豊原庄(現瀬戸内市)の砥石城から落ち延びました。まさに裸一貫から戦国大名に上り詰めた不世出の英雄だったのです。
織田氏と毛利氏の大名勢力に挟まれながらも知謀を尽くし、そして苦労をともにした家臣団との絆を深め、側室を持たず一人の女性を愛したこと、およそ梟雄のイメージとはかけ離れた姿が見えてきたのです。
息子の秀家公は、天下人の秀吉に気に入られ、一族同様の処遇で、秀吉の養女である豪姫と結婚しました。そして豊臣五大老の一人となります。朝鮮半島へ出兵した文禄の役では、日本軍の総大将の扱いを受けていました。
しかし、秀吉が死ぬと家臣団と対立し、直家公以来の有力家臣が離れました。直後の関ヶ原の戦いでは西軍主力として戦うも敗北し、薩摩へ逃れた後、八丈島へ配流となりました。
豪姫は秀家に仕送りを送り、自身は再婚することなく一途に夫と子らの身を案じ続けたと言われています。
戦国宇喜多家は、波瀾万丈の人生を体現しているといえます。
歴史に葬られた英傑といえる直家公、忠義に生きた秀家公。そして、2人を支えてきた気高く頼もしい妻たち。
まさに、大河ドラマの主人公にふさわしいと思いませんか。
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空から見た岡山城本丸
大河ドラマ化に向けた署名活動を行っています
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