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−第25回(平成5年度)− |
今日は暦の上の白露、朝早く庭を回ると、松の枝に吊るした折鶴らんの長い葉先に露が宿り、昇りかけた太陽の光を受けて、きらりと光っていました。 お父さん、いくら呼んでも返事はかえって来ないのです。けれども、人の魂がこの世にあるならば、どこかで通じ合えるのではないでしょうか…。お父さんが帰ることのない別の世界へ旅立ちの日から、指を折って数えると、もう二十年も経っていました。 お父さんが旅立つ三日前の夜、私の家に五日ほど逗留していた母を夫の車で送って行ったとき、お父さんは、「持病の脱肛が痛む」と言って、こたつの中に丸くなって寝ていましたね。そのとき、初めてお父さんの口から、老いの寂しさを聞いたのです。けれども、その顔には暗い影は見えず、いつもの笑顔で淡々とした語りでしたね。その表情が明るいので、私は何を聞いても救われるような気持でした。 「お父さん、頭髪が伸びているから、今度ゆっくりできる日に刈ってあげるからね」 お父さんの頭を撫でながら私は約束して帰ったのに、それも果たすことなく、その日から三日目の夜、突然の心臓発作により、「さよなら」も言わず旅立たれてしまったのですね。さぞかし、言い残したいことは胸いっぱいに詰まっていたでしょうに…。 お父さんの最後の短歌を読みながら、私は何度涙をぬぐったことでしょう。 娘を訪ひて妻の帰りていろいろと語るを聞けば楽しかりけり こたつにてテレビを見つつ恍惚と居眠る老いとなり果てにけり 人生の終焉を思わすこの最後のうた。そして娘の私に残した「娘を訪ひて」のうた。ともに私の脳裡に深くきざみこまれています。 そういえば、お父さんからの葉書に、「お母さんの世話をよくしてくれてありがとう」の一節がありましたね。この葉書文は短歌とともに絶筆となりました。女性が書いたような細かくて優しいペン文字のお父さんからの葉書が、私の文箱にたくさん詰まっています。 数多いその葉書に対して果たして私は、何枚の返事を書いたのでしょうか。じっくりと考えてみても数えるほどもないのです。若い頃のお父さんだったら、容赦なく長船の家から西大寺の私の家まで届くような大声で怒られたことでしょう。私が嫁いでからは叱られたことはなく、それどころか、職場と家事にと走り回っている私を気遣い、電話もよくもらいましたね。私の多忙は理由にもならないのに返事も出さず、ごめんなさい。 木枯らしの吹きすさぶ寒い寒い二十年前の十二月二十六日。お父さんの旅立ちの夜が、また、今年も忘れることなく巡って来ます。 お父さん、読んでくださるだけで結構です。お返事はいりません。 さようなら |
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