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-第41回(平成21年度)- |
降っているとも見えないほどの細かい雨が、朝から降り続いていた。週一回、母が泊まりがけで我が家を訪れる日の翌朝である。雨に足取めされた私たちは、朝食後のひとときを思い思いに過ごしていた。 先程から熱心に解いていた数字のパズルに行き詰まったらしく、母がしきりにぼやきだした。 「やっぱり星が五つも付いとるから難しいんじゃろうなぁ?どうしても解けんが」 大きな声で同意を求めている。そんな母の言葉には頓着もしないで、私は朝刊に目を通し始めた。さっきまで母に新聞を占領されていて読めなかった、と思う気持ちがあるから、何時になく熱心にページをめくる。平素は見出ししか読まない政治欄を先ず広げたのは、少し前に彼女がその部分を声に出して読んでいたから、というところが少々情けない。 とうとうパズルに見切りをつけた母は、昨日手に入れたばかりの『万葉集』を読み始めた。否、詠み始めたのである。今年八十七歳になった母は、少し耳が遠い。その分大きくなった声で、気持ち良さそうに朗々と詠んでいる。そのうち、本の内容を私に教えようという親切心まで起こしたらしい。 「枕詞はどうして出来たんじゃと思う?」 「柿本人麻呂の歌は、なんでこんなに上手いんじゃろう」 云々と、しきりに話しかけてくる。 新聞を読んでいる私の目は必死に活字を追うのだが、さっきから同じ所を行ったり来たりしているばかりで、内容が少しも把握出来ない。とうとう堪忍袋の緒は切れた。 「あのなぁ、今、新聞を読んどるんじゃけど・・・」 と、私。 「ごめんごめん。声に出して読むのが癖になっとるからな。はいはい、もう黙ります」 と、母はあっさり引き下がる。 静かな時間が戻り、やがて私はその静かさに気がとがめ始める。そして、新聞を放り出し、コーヒーを淹れる為に席を立つ。 「お互いに、ひとり暮らしがそれだけ長うなったというこっちゃ」 コーヒーを飲みながら、私たちは笑った。 十二年前、母と私は月を前後して伴侶を亡くした。お互い、それ以来のひとり暮らしである。あっという間だった気もするが、気儘なひとり暮らしが身についてしまうのに十分な長さではあったということであろう。 母と過ごすこんな穏やかな朝を有難いと思い、それでも、一週間に一度ぐらいでいいかなとも思う。 コーヒーを飲み終わった頃、降り続いた雨は小止みになった。 「もう少し待ったら?」 という私の忠告には耳も貸さないで、母はいそいそと自分の家に帰っていった。 |
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