■前 史 |
南北朝争乱期の正平年間(1346〜70)に、南朝の功臣・名和氏の一族上神太郎兵衛尉高直が岡山の地に城塞を構えたことが「備前軍記」に見えるが、これが岡山(石山)への城の存在が文献に登場する最初のものである。しかしその後およそ
150年間の城主は明らかではない。大永年間(1521〜28)になって金光備前が在城し、金川城(建部町)主松田氏に仕えていた記録が見える。この頃の石山城は、守りの堅い館程度のものであったと推定される。 |
■宇喜多直家、石山進出 |
備前の子・与次郎宗高も父に続いて松田氏に仕えていたが、元亀元年(1570)その頃着々と勢力を伸ばしていた沼城主・宇喜多直家に滅ぼされる。石山城を手にした直家は、この地を自らの居城とすべく、重臣の戸川・馬場両氏に命じて城の大改修に着手、当時石山にあった岡山神社・今村宮・岡山寺・蓮昌寺などの社寺を城外に移転して城を大幅に拡張した。そして3年後の天正元年(1573)いよいよ石山の地に居を移し、備前の中原への進出を果たすのである。 |
■石山城(前岡山城)の概要 |
直家が築いた石山城は、どのような城であったのか。城の遺構が岡山城の下に埋没しているため、その全容は明らかではなく、類推の域を出ない。
石山城はのちの岡山城の二之丸内郭の池田家祖廟(現:榊原病院)を本丸、西之丸を二之丸とし、石山門(戦災焼失)付近を大手とした東西に走る連郭式の縄張であったと推定される。のちの岡山城の壮大さに比べると規模は小さいが、石垣上に隅櫓や櫓門を構え、書院造の建築物も建ち並んでおり、城の周囲には武家町と町人町が未分化ながら城下町も形成されていたと考えられる。しかし、直家は石山進出ののちも領国平定のための合戦に明け暮れていたため、本格的な近世城郭の建設に着手できないまま、天正9年(1581)、石山城に没する。 |
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