■宇喜多秀家、新城築城に着手 |
直家の跡を継いだ秀家はこのときわずか8歳であったが、羽柴(のち豊臣)秀吉の寵を受け、その庇護の下で成長、天下統一の合戦にも従軍し、57万石余を領する大大名となった。そうなると父の頃のままの石山城は大身の大名の居城としてはあまりにも手狭で、かつ構造も古く、57万石にふさわしい城と城下町を整備する必要に迫られた。そこで秀家は、秀吉の天下統一事業も一段落した天正18年(1590)、新規築城と城下町整備に着手する。 |
■近世城郭「岡山城」誕生 |
築城計画は秀吉の指導のもとに進められた。石山城の本丸を二之丸内郭、二之丸を西之丸とし、新たに本丸を東の岡山に構築、本丸北端に天守閣を築いた。このため城は「岡山城」と、同時に整備された城下町も「岡山」と呼ばれるようになったのである。本丸・二之丸内郭・西之丸は総石垣造りで、西から南面に堀を穿ち、さらにその南には重臣の屋敷地たる二之丸(外郭)を設けた。形式的には、東端に本丸が配置された梯郭式平山城である。しかし、この郭の配置では、城の中心たる本丸の東側の防御が極めて手薄となるため、およそ2km北方を蛇行していた旭川の流れを城郭の北から東側に沿うように変更して天然の堀とし、防御力を強化している。城は8年の工期を経た慶長2年(1597)、天守の竣工をもって一応の完成を見た。 |
■城下町の整備 |
秀家は同時に城下町整備も進めた。二之丸西・南側に内堀を挟んで三之曲輪を設けて町屋とし、父・直家が石山城の南に沿って通していた山陽道(西国街道)を、旭川を渡ってこの曲輪を縦断するよう道筋を変更した。さらに国内の有力商人をこの地に呼び寄せて、領内経済活動の中心とした。これが今も市内一の繁華街たる表町商店街の始まりである。秀家は関ヶ原合戦に敗れて八丈島流罪となり、岡山を去るが、城下町はその後も領国経営の中心地として発展を続けるのである。 |
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宇喜多秀家
豊臣秀吉に寵遇され、若くして五大老にも列する |
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岡山城蔵 |
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宇喜多期岡山城城郭図
江戸時代の岡山城との相違点は、外堀の有無と、本丸本・中段の形状である。 |
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