吉備・陵南地区は、明治時代まで足守川を中心とした水運の拠点として、たくさんの商船が行き来していました。
干拓などにより少なくなりましたが、今も沼地がところどころに広がり、船の道しるべとして使われた常夜灯や石橋など、当時の名残を感じさせる史跡が残されています。そんな吉備・陵南地区をぶらり歩いて、文化や歴史、それらを守る素敵な方々に会いに行ってみませんか?
まずご紹介するのが、「庭瀬かいわい案内人の会」のみなさん。地域で暮らす人にふるさとの魅力を知ってもらい、「自分たちの地域にこんなところがあったんだ!」と感じてもらえるよう、まちあるき用のマップを作ったり、ガイドとして実際に地域を歩いて魅力を伝えたりしています。
「庭瀬かいわい案内人の会」の上森さん(左)、香田さん(右)
吉備・陵南地区に港があった時代、船の道しるべ役となっていた常夜灯
道のあちらこちらに残された石。刻まれた「水神」の文字にはどんな意味がこめられているのでしょうか?
庭瀬城址の近くにある撫川城址。毛利方の国境防備の城である「境目七城」の1つ
また庭瀬かいわい案内人の会のみなさんは、小学校の授業を通じて地域の歴史や文化を伝えています。「子どもたちには、いろんなことに対して『なんでだろう?』『どうしてだろう?』という疑問を持ち続けてほしい」と会長の香田さんと案内人の上森さんは語ります。
地域に残された史跡などのたからもの。そのたからものには、昔の人が暮らしの中で身につけた考え方や知恵がつまっています。「地域の歴史や文化を学ぶことで、いま当たり前に感じていることを、見直すきっかけにもなる」のだそうです。庭瀬かいわい案内人の会のみなさんは、吉備・陵南地区を訪れた人たちに、地域の歴史や文化を優しくひも解きながら伝えていきます。
そんな庭瀬かいわい案内人のみなさんと吉備・陵南地区を楽しく歩いてみませんか?お申し込みについて、詳しくは吉備公民館のウェブサイトをご覧ください!
灯台のように船の道しるべとなっていた常夜灯。昭和まで、なたね油を燃料として火が灯され、風で火が吹き消されないよう障子紙がまわりにはられていました。現代の私たちからみると、小さな常夜灯の灯りが、船の安全を守っていたなんて信じられないかもしれません。しかしコンビニはもちろん、電灯もなかった当時のことを考えると、常夜灯の灯りが必要・十分な明るさだったのかもしれません。
毎年夏になると庭瀬城址で、一重できれいな淡紅色の花を咲かせる大賀ハス。この大賀ハスは約2000年前の地中から発見された、古代ハスの実が発芽したものであることをみなさんはご存知ですか?
発見した人は大賀一郎博士。
1883年(明治16年)に吉備地区で生まれた大賀博士は、67歳の時に古代ハスの実を発見。努力を重ね、他の品種が混ざっていない純粋な古代ハスの発芽に成功しました。この業績から大賀ハスと名づけられ、世界でも高い評価を受けました。
大賀博士が生まれた吉備地区にある庭瀬城址に、大賀ハスが植えられたのは1997年(平成9年)のこと。大賀ハスを守り、未来へ残していくための活動が始まりました。
しかし、長い活動を通じて、純粋な大賀ハスの品種が失われる危機にさらされていました。何とかその危機を乗りこえようと、2012年(平成24年)に現在の副会長である浅野さんを中心に、「吉備大賀ハス保存会」を立ち上げ活動をスタート。
純粋な大賀ハスに他の品種が混ざらないよう、ハスの株を別々のポットに分け、ボートに乗って水やりを行うなど地道な活動を続けました。その努力が実り、現在では大賀ハスが美しい花を咲かせるようになりました。
ボートに乗って水やりを行っている様子
「吉備大賀ハス保存会」のみなさん
4日間花開く大賀ハス
大賀一郎博士と大賀ハスの写真がのった「吉備大賀ハス保存会」の会員証
大賀ハスのつぼみを発見したときや花が咲いたときの喜び、地域の人からかけられる「ご苦労さまです!」の言葉が、吉備大賀ハス保存会で活動するみなさんの原動力になっているのだそうです。
さらに、「庭瀬城址のまわりだけでなく、あちらこちらで大賀ハスが咲く地域を作りたい!」。そんなロマンあふれる夢を持った個性豊かなメンバーが、お互いを尊重しながら活動に取り組んでいます。
2000年以上前のハスが、吉備地区で生まれ育った大賀博士の手によってよみがえりました。その大賀ハスが、現在は吉備大賀ハス保存会のみなさんによって守られ、一年に一度だけ美しい花を咲かせています。大賀ハスはこれからもずっとずっと、たくさんの方々を楽しませてくれることでしょう。
大賀ハスは7月中旬から8月上旬が見ごろです。
ぜひ一度見に行ってみませんか?開花についての情報は吉備大賀ハス保存会のページ別ウィンドウで開くをご覧ください!
仏教などのシンボルとして有名なハスの花ですが、大賀博士はハスを「平和の象徴」と呼びました。大賀博士は、ハスにどんな思いをこめてそのように呼んだのでしょうか?
※うちわ上部に描かれた波模様に、俳句の文字が草書体で描かれています。
吉備・陵南地区で作られてきた撫川うちわ(なつかわうちわ)。64本の骨にはり合わされた紙に、ゆれる波の模様のように俳句が描かれていることや、俳句の内容に合った絵が「透かし」入りで描かれていることが特徴です。また、100年以上続く伝統的な技法により、すべて手作業で作られていることなどから、県指定郷土伝統的工芸品にも指定されています。
江戸時代に武士が趣味として作っていたうちわが、撫川うちわの始まりでした。江戸時代には、生活に密着した絵が描かれていました。そして時代に合わせて花などの絵が好んで描かれるようになるなど、少しずつその姿は変わっていきました。
しかし明治時代から大正時代にかけて機械化が進み、撫川うちわをつくる技術が一度失われそうになりました。その状況をなんとかしようと、1980年(昭和55年)に公民館で講座をスタートしました。後継者の育成と地元の人に広く撫川うちわについて知ってもらうことを目指して開催しています。現在では約20名から25名の講座生が受講しています。
地元の小学校でも毎年、撫川うちわの歴史や作り方の説明を行っています。
吉備公民館の撫川うちわの講座で講師をつとめる保存会の会員
第1・第3土曜日に行われる撫川うちわの講座の様子
紙が動かないように、手づくりのこよりを使っています。(伝統的技法)
伝統的な技法により手作業で作られている撫川うちわ
撫川うちわの良さは、すべてが手で作られていること。材料の竹を自ら切ったり、64本の骨を丁寧に手で分けるなど、作り手のこだわりと愛情が込められています。だから撫川うちわは、一本一本味のある仕上がりになるのです。
「撫川うちわをあおぐと、優しくてやわらかい風がそよぎます。あおぐ人もあおがれる人も、優しい風と涼しげできれいな絵柄に心が和むんですよ」と話すのは、講座で講師をつとめる戸田さん。クーラーもなかった時代の人は、色々な工夫で暑い夏の中でも楽しみと涼しさを生み出してきました。
手づくりだからこそ、ものを大事に使う心も育まれます。ものを使ってすぐ捨ててしまいがちな今の私たちが、忘れかけている大事な心がそこにはあるのではないでしょうか。
撫川うちわ保存会「三杉堂」では、見学も行っています!実際に撫川うちわが作られる現場を見に行ってみませんか?
撫川うちわを水平面に置くと、すっと立ちます。撫川うちわは左右上下均整のとれたうちわなのです。
歴史・文化に触れるまちなかESDスポットめぐりその1・その2
住所:岡山市北区